陽三の野球人生



30才になった "野球少年"
平成17年春に保土ヶ谷球場にて(相模原クラブ公式戦)


前田タイガース(昭和59年〜昭和61年)

4年生のときに野球を始める。6年生のときにセカンドのレギュラーっぽい役割。 でも目立った活躍はなし。通算成績不明。5年生のときに初打席でライト前ヒットを 打った覚えがあるが、その後ほとんどヒットを打った記憶はない。


秋葉中学校野球部(昭和62年〜平成1年)

人数が多かったこともあり、到底レギュラーをとれる状況ではなかった。通算成績は、練習試合1試合出場で1打数0安打。 最後の大会は好きでもあったスコアラーを担当。


光陵高等学校野球部(平成2年〜平成4年)

高校野球の厳しい練習に耐え得る体力や気力に自信がなかったことと、 もともとデータ集計等に興味があったことから、スコアラー志望で入部。 監督である杉山敬一郎氏もその存在を評価してくれて、主に自チームの個人成績やデータ分析に従事。 通算成績は当然、試合出場なし。思い出は、高2時のベスト16進出(神奈川202校中)と、 全員でもぎ取った最後の大会の1勝。現オリックスバファローズの 菊地原毅投手、元阪神タイガースの矢野正之投手と対戦したことも思い出。


東京農工大学硬式野球部(平成5年〜平成10年)



スコアラーの道を更に突き進む考えもあったが、もう1度選手として野球に携わる。 強豪校ではなかったものの、自分の野球技術が及ぶはずもなく(?)、レギュラーを とることはないまま現役引退。リーグ戦通算成績は6打数1安打。

その一方で今度は他チームのデータ分析を始める。スコアラーと選手の兼任、 大学院時代はスコアラーとコーチの兼任という形だった。決まった相手と試合を行う リーグ戦という試合形式はスコアラーとしての自分には非常に適合した形式だった。 自主性が重んじられること、頭を使っていかなければならないことなども含め、 大学野球こそは自分に1番あった野球だったと思い、この野球に出会えたことは 自分にとって大きかった。


相模原クラブ(平成11年〜)

一応選手登録(内野手)ということになっているが、スコアラー・マネジメント等、 チームの役に立つことは積極的にやっていきたいと思っている。 自分がこれまでに得たことを様々な形でチームに伝えて役立ててもらうようにし、 また自分自身も見る目を磨いて勉強していきたいと思う。


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