あきらめなかった男「内藤さん」

(山口陽三筆)

令和7年秋

令和7年(2025年)秋の東京新大学野球連盟。1部リーグ戦は杏林大が加盟以来初の優勝を果たし、 続いて出場した明治神宮大会予選を兼ねる関東地区大学野球選手権も初優勝。 これまた初めての出場となった明治神宮大会にて惜しくも初戦(2回戦)敗退となったものの 同部にとって歴史に残るシーズンとなった。

日付 試合結果 備考
第2週第1戦 9月13日(土) ○杏林大 7-1 流通経済大●
第2週第2戦 9月14日(日) ○杏林大 6-2 流通経済大● 勝ち点1
第3週第1戦 9月20日(土) ○杏林大 4-3 共栄大●
第3週第2戦 9月21日(日) ●杏林大 2-5 共栄大○
第3週第3戦 9月22日(月) ●杏林大 4-5X 共栄大〇
(延長10回サヨナラ)
(10回からタイブレーク)
第4週第1戦 9月27日(土) ○杏林大 2-1 創価大●
第4週第2戦 9月28日(日) ○杏林大 5X-4 創価大●
(延長11回サヨナラ)
(10回からタイブレーク)
勝ち点2
第6週第1戦 10月11日(土) ○杏林大 5X-4 駿河台大●
(9回サヨナラ)
第6週第2戦 10月12日(日) ○杏林大 12-0 駿河台大●
(7回コールド)
勝ち点3
第7週第1戦 10月18日(土) ●杏林大 3-10X 東京国際大○
(8回コールド)
第7週第2戦 10月19日(日) ○杏林大 6-4 東京国際大●
第7週第3戦 10月20日(月) ○杏林大 9-4 東京国際大● 勝ち点4
杏林大の優勝が決定
関東地区大学野球選手権への出場が決定
関東地区大学野球選手権
2回戦
11月3日(月) ○杏林大 13-0 帝京大●
関東地区大学野球選手権
準決勝戦
11月4日(火) ○杏林大 6-0 松本大● 明治神宮大会への出場が決定
関東地区大学野球選手権
決勝戦
11月5日(水) ○杏林大 4-0 神奈川大● 同選手権初優勝
明治神宮大会の関東第1代表が確定
明治神宮大会2回戦 11月15日(土) ●杏林大 2-3X 名城大○
(延長10回サヨナラ)
(10回からタイブレーク)

本編はこのシーズン(だけ)にフォーカスしたものではないので深く掘り下げるのは避けるが、 このシーズンを簡単に振り返ると、当たり前だが楽に勝てた優勝ではなかった。 延長戦も含めて接戦も多い。その中でも特徴的だったのは4年生に左右のダブルエース (右の松本悠希=細田学園高校出身、左の岩井拓巳=東京成徳大高校出身)、そして1年生に 実力を備えた将来のダブルエース(古宇田烈=聖光学院高校出身、内野大翔=東村山高校出身)を 有する強固な投手陣であり、それが如実に表れたのが関東地区大学野球選手権、 大会史上例のない「無失点優勝」を成し遂げたというものだった。

筆者はこのシーズンの杏林大の戦いを生で観戦した試合は1試合もなかったが、 大きかったのは9月28日の創価大戦だったと思う。長く連盟内王者として君臨する創価大に対して 前日の第1戦を松本の完投で辛勝。第2戦もリードを保って終盤を迎えていたがこの試合に 先の「ダブルダブルエース」4投手すべてを注ぎ込み済みだった。 1敗を喫しても翌日の第3戦がある状況ではあったが「2連勝で決める」というベンチの強い意志だったのだろう。 ところが9回2死から松本が、翌月には3球団競合ドラフト1位指名を受けて 阪神タイガースに入団することになる立石正広(4年生、高川学園高校出身) に同点2ランを浴びる。優勝することは、1個の勝ち点を王者から奪うことは、こんなにも難しいのかと 思わせたが、ナインはここでひるまずに延長戦を勝ち切った。おそらくあの1試合を落としていたら このシーズンの優勝はなかった(翌日の創価大第3戦は大敗していたと筆者は勝手に思っている) であろう試合を、チーム力で拾って踏みとどまった。実は生で観戦していないながら家族と外食に 出かけていた筆者は、スポーツナビの動画配信を、気が気でなく鑑賞していた。 あの場面で同点2ランを打てる立石にはうならされた。


(関東地区大学野球選手権優勝時の集合写真。部のホームページより)


創部40年

杏林大野球部の略歴
年度/シーズン イベント 備考
昭和60年
(1985年)
創部
昭和62年
(1987年)
東京新大学野球連盟加盟
(3部からスタート)
昭和63年秋
(1988年秋)
3部初優勝 2部昇格は果たせず
平成1年春
(1989年春)
3部優勝、2部昇格 以後3部に戻ることはなし
平成2年秋
(1990年秋)
2部初優勝 1部昇格は果たせず
平成9年秋
(1997年秋)
2部で6度目の優勝、1部昇格 しかし以後4度は2部降格を味わう
平成26年秋
(2014年秋)
初の1部2位
関東地区大学野球選手権に初出場
令和2年春
(2020年春)
新型コロナウイルスの影響でリーグ戦中止
令和4年秋
(2022年秋)
直近の2部降格
令和5年春
(2023年春)
2部優勝、1季で1部復帰
令和7年秋
(2025年秋)
創部40年、加盟38年での初優勝
簡単に杏林大の歴史と順位遷移をたどってみた。折れ線グラフの方は、本当なら7〜12位を2部、 13〜18位を3部と色分けしたいとか横軸は全シーズン表示したいとかあったのだが、 どこぞのスタイルシートを流用しただけで使い方を完全に把握していないのでご容赦いただきたい。 これをどう見るかは非常に難しいところだ。大きな枠組みとしては緩やかな右肩上がりとも 感じるが、初期の上がり方を考えたらもっと早く頂点に達してもよかったようにも感じる。 逆に停滞の時間や下り坂を感じる時期もあることを考えると、右肩下がりに凋落していかなかった ことは立派とも言えるかもしれない。

野球のみならず、知名度向上のために大学がスポーツに力を入れることはよくある話だ。 「創部40年目での初優勝」を早いと見るか遅いと見るかは難しく、創部当初から 力を入れていて早期に優勝を達成する例もあるだろうし、長く同好会型の部活動だったのが ある時期に強化指定部になったから「創部○年目」の数字だけは大きいものになったという 例もあるだろう。強化指定部になっても優勝を果たしていない例も多くあるだろう。


あきらめなかった男

本編で取り上げるのは杏林大の教授であり野球部長を務める内藤高雄氏。何がすごいか 簡潔に説明するのは難しいが、部の歴史が40年である中で、部長職を34年務めてきている 点である。初優勝、初の神宮進出は、34年にわたって追いかけ続けてきた内藤さん (個人的に親交があるので以後こう呼ぶ)の思いの結実であり、それがなにより感慨深いのだ。
(上記集合写真、前から2列目左端が内藤さん)

「全国大会出場」。大学野球のみならずそれを目標にスポーツや競技に取り組む人は多いと思う。 例えば高校野球ならば「甲子園出場」でありわかりやすい一つの目標だ。 果たせない場合も多いが公言しても別段恥ずかしくない。 ところがそれを追いかける時間は一般的に有限だ。高校生の部活動なら3年間、大学生の 部活動なら4年間。筆者が長く取り組む社会人野球のクラブチームは、チームに所属する期間は 有限ではないものの一競技者として本気で「全国大会出場」の目標を追いかけられる 時間はそれほど長くはない。家庭や仕事といった取り巻く環境の変化、また自身の加齢による 肉体的な変化の影響は無視できず、長く追いかけ続けられる性質の目標とは少し違う。 ところが内藤さんは34年間追いかけ続けて成し遂げた(たどり着いた)のだ。こんな例があるだろうか。 似た話として新卒で高校野球の指導者になった高校教諭が、苦節何年の指導の結果、 定年間近にようやく甲子園出場を果たすことができた、という例はたまに聞く。 しかし果たせずに引退する例が圧倒的に多いと思うのだ。

内藤さんの部長就任が平成3年(1991年)で、筆者が対戦校として母校に入学して杏林大と 対戦し始めたのが平成5年(1993年)。 筆者の大学野球生活自体は平成10年(1998年)で一区切りはするがその後も内藤さんとの交流は続き、 内藤さんが杏林大野球部で過ごしたほとんどのシーズンを筆者は、 遠すぎず近すぎずの距離で見てきたつもりでいる。30年を超える付き合いと言える。 今回のことで以前に書いた「ひとりごと」をつまみ読みしてみたが、内藤さんは平成5〜6(1993〜1994)年 ごろには1部昇格、平成10年(1998年)ごろには「全国大会出場」を果たしているつもりでいたようだ。 結果的に1部昇格は3年強、全国大会出場は27年ほど後ろ倒しになるのだが、普通ならば 27年の間にあきらめるか、引退の時を迎えてしまうものだ。気が遠くなるほどの時間、 野球部長を務め続けることができた人事の不思議は大学人ではない筆者には よくわからないところではあるが、そのあきらめの悪さと夢を追いかけ続けられる強い精神力に あらためて感服する。


内藤さんの苦悩

当たり前だが順風満帆だったわけではない。時代によっては内藤さんの方が「勝ちたい、強くなりたい」 と思っても部員の気持ちがそこまででもない時代もあったのも聞く (例:「本気で野球やるなら他大学」を紹介したコラム)。 監督も兼任していた時代や、本職の会計学者の仕事でフランス駐在していて現場を見られない時期もあった。 新監督が就任した最初のシーズンでいきなり2部降格の憂き目にあって「采配は監督権限なのを理解している。 しかし(敗れた)入れ替え戦のあの回のあの采配だけ聞かせてほしい」と監督に迫ったエピソードも聞いた。 書いていいかわからないが部内の不祥事が起きて対応に奔走した事例もなかったわけではない。 でも、いつどの事象が起きたときも、「杏林大野球部のためにどうすべきなのか」それを忘れず、 愚直に、誠実に、向き合い続けてきたことには疑いがない。 その積み重ねが成果となって表れたのが令和7年の初優勝、初の神宮出場、 ということだったと思う。惰性で34年間続ければ誰でも達成できるものでは、決してないのだ。


大学側との関係

今回の成果に至る表面的なきっかけとして大学側の支援は無視できず、令和3年(2021年)の室内練習場 完成、令和6年(2024年)からの立教大での実績がある溝口智成氏の監督就任、それらの時期と絡んで 有能な選手たちが入部するようになってきたなどのことはあると思う。しかしそれだけで説明するのは 一面的すぎると思っていて、現に先に紹介した4年生の左右ダブルエースは1年次から活躍していた もののそのシーズン(令和4年秋=2022年秋)にチームは2部降格するなど、苦労は絶えないのだ。 ひいき目かもしれないが内藤さんが、年上の荻本有一元監督も、実績のある溝口智成現監督もしっかりと 支え、あるいはやりやすい環境作りに腐心し、大学側とは支援もお願いしながら何かあれば部員も守りながらと うまく調整しながら部活動運営をしてきたからこそ、だと思うのだ。

(室内練習場とトレーニングルーム。部のホームページより)

初優勝を飾ることになる関東地区大学野球選手権は初戦こそ祝日ではあったが以後の日程は平日開催。 教授として授業を持つ内藤さんだが大学側から「後日補講すればいいから、休講にして(試合会場の)横浜スタジアムに行け」 と言われたと言う。初の明治神宮大会出場に向けては大学側が前のめりで盛り上がり、

が用意されたとのことだ。スポーツで結果を出して大学の名前も広く知られる効果が 生じたからとは言え、日ごろから大学側と良好な関係性を保っていた内藤さんの 力も大きいと言えるだろう。


冬の涙、次の春への思い

10月20日のリーグ優勝決定、11月3〜5日の関東地区大学野球選手権、11月15日の明治神宮大会、 そして11月30日に行われたという祝勝会(4次会まで盛り上がり続けたOBもいたとの逸話も)と、 激動の1ヶ月ほどを駆け抜けて少し落ち着いたであろうかという 12月12日に内藤さんと食事をした。リーグ戦の対戦から交流を深めていった工学院大職員の町田さん、 東京理科大卒業生の藤島くんとを合わせた4人で年に2回(春・秋のリーグ戦終了後)会食する イベントはこれも25年前くらいから続いているのだが、今回は特別な会となった。 「初めての神宮はどうでしたか?」との問いかけに、「最高だったね」と即答してもらえたが、 特にフィールドからスタンドを見渡したときに、大学関係者、卒業生、父母、支援者等 多くの方々が見えてその方たちの長年の思いに応えられた思いで胸がいっぱいになったと 内藤さんが涙ぐんだ。感激も落ち着いた時期かとも思っていたがいまだ涙ぐむ姿に、あらためて 積年の思いが大きかったことを感じさせられた。
ちなみに杏林大野球部は父母やOBが熱心である。創部時代の卒業生・大沢一仁氏が 上下のOBをしっかりつないでいるのもあるが、いつ母校の試合に訪れても「内藤さん」という 知っている顔に会えるからということも大きな理由だろうし、 内藤さんがみなさんを大事にしているからこそだとも感じる。

(名城大戦で惜敗後、スタンドに向けて整列。右端が内藤さん、隣が溝口監督)
(霞球会=東京国際大野球部OB会の動画より)

「神宮出場」を目指して走り続けてきた34年間。それを果たした内藤さんは、その時点では 「夢がかなったからいつ死んでもいい」と言っていたものだが、9回2死までリードして手中にしていた 「神宮初勝利」を名城大に阻まれるという悔しい負け方をしたせいか、次の目標を 「全国制覇」に上方修正して再びチャレンジしていくという。 正直を言うと筆者は「神宮出場」の目標さえ追いかけ続けて果たせないまま終わるようにも 思っていたので「全国制覇」など、まず無理とは思ってしまう(端を折るようで申し訳ないが翌シーズンの 令和8年春でさえリーグ優勝が簡単ではないどころか1部リーグ最下位の可能性だって一応心配しておかねば ならないとも思っている)。しかしあきらめの悪い挑戦心で、もしかして果たしてしまうかも しれないという小さな希望もある。次の楽しみもできた。こちらもあきらめ悪く、内藤さんとの 交流は続けさせていただければと思う。


付録

杏林大の初優勝を報じた、筆者の連盟ホームページ、10月20日のトップ。
34年なのか35年なのかちゃんとカウントできていなかった部分はあるものの、
当日深夜に内藤さんを涙ぐませる効果はあった模様。

ちなみに後日、リーグ優勝できると感じたのはいつごろかと
聞いたところ「10月19日に国際大に勝ってあと1勝となったとき」
とのことなので意外と遅かった。


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