東京国際大復活の立役者、一人は天田雅伸、もう一人は・・・

(東京新大学野球連盟2部に所属する東京農工大学を卒業した山口陽三が東京新大学野球連盟の 1ファンとして独自の観点で勝手に語ります)

平成11年春、東京新大学野球連盟2部のリーグ戦では東京国際大(以後国際大)が 8勝2敗で優勝を果たした。そして6月に行われた1部最下位校・日本工業大との 入れ替え戦では第1戦をコールド負けで落としながら第2戦を5-1で ものにし、1勝1敗で迎えた第3戦は一進一退の攻防の末、 最後は国際大が1点差で逃げ切り、9季ぶりの1部昇格を決めた (詳細は東京理科大学硬式野球部のページを参照→ こちら)。 さらに迎えた平成11年秋のシーズン、国際大にとって1部昇格後最初の シーズンだったが1部の老舗校である東京学芸大・高千穂商科大からいずれも 2連勝で勝ち点を挙げた。エース左腕の橋本直弥(4年生、坂戸高校出身)は 両校との対戦でいずれも第1戦で完封勝利。それを野手もうまくサポートしての 勝ち点だったようだ。流通経済大・創価大にはさすがにかなわなかったものの 6勝5敗、勝ち点3での3位は、昇格後最初のシーズンにしては上出来だろう。 いや、国際大の歴史に残る好成績といってもいい。国際大が 1部で最も活躍したとされるシーズンは平成2年秋である(1部で3位)。 平成2年春に宮野という左投手を擁して9勝1敗で2部優勝を果たし、 日本工業大との入れ替え戦に勝って1部昇格を果たした直後のシーズンである。 筆者は宮野という投手どころか当時の国際大すら知らないのだが、 先輩からは宮野はすばらしい投手だったと聞かされてきた(しかし平成2年春 のシーズン、唯一の黒星を宮野につけたのが筆者の先輩たちの、東京農工大 だったらしく、先輩たちの自慢にもなっている)。 宮野は国際大史上最高の左投手だったと伝え聞いたこともある。 橋本がその宮野と並ぶだけの実力があるかはわからないが、橋本も 宮野も左投手、日本工業大との入れ替え戦、1部昇格後最初のシーズンの活躍、 など「最も活躍した」平成2年秋と重なる部分は多い。

これは筆者だけではないかもしれないが、はっきり言って今年の国際大の この活躍ぶりは予想していなかった。春の2部優勝だってどうかと思っていたし、 入れ替え戦にしても、相手の日本工業大有利の説を持っていた。苦しみながら 日本工業大に勝って1部昇格を決めても1部で勝ち点など挙げられないものと 思っていた。筆者は平成10年を最後に東京新大学野球連盟から離れ、今年は試合も あまり観戦していないのであまり的確な予想もできるはずがなかったのだが、 とにかく国際大は筆者の予想以上の活躍をした。今回はその躍進を支える 二人の人間を紹介してみたい。

さいきんの国際大の、一つの転機となったのは平成9年秋のシーズンである。 国際大は平成7年春に1部で最下位になり、入れ替え戦で工学院大に1勝2敗 で敗れ、2部転落。その後は

という戦績をたどる。そして平成9年春、筆者の "4シーズン理論" で言えば 1部に復帰するための最後のチャンスだが、なんと4勝6敗、シーズン途中では 最下位の可能性と背中合わせのまま戦わなければならないという不本意なシーズンで 4位に終わった(最下位は3勝7敗の東京理科大学だったのでわりと競っていた)。

そして先に筆者が「転機」と位置づけた平成9年秋のシーズンを迎えるにあたり、 国際大というチームにいくつかの変化があった。 1部時代を知る "最後の学年" である当時の4年生が、春のシーズンを 最後に佐々木博基(秋田南高校出身)を除いて引退。この学年はやる気がなかなか見えて こないが個々の実力はそれなりにありそうなメンバーが多かったが、 その学年が引退した。そして当時の1年生がチームに入ってきた。センス抜群の 天田雅伸(当時1年生、佼成学園高校出身)らを中心とするこの学年は、 天田を除いては個々の実力はそれほどではなかったがまとまりがあり、元気があった。 2・3年生はだいたいそのままだったがやる気のない4年生が 中心だったチームから、天田という若くしてチームの精神的支柱になりつつある 選手を中心に据えた元気なチームへと、だいぶ雰囲気が変わったシーズンであった。 そしてもう一つに監督の交代があった。国際大の、前の1部昇格時代から 長く指揮をとってきた谷口学監督(国際大OBらしい)に代わり、新井嘉浩監督・ 宇野伸洋コーチ(いずれも国際大のOB)が就任した。交代の経緯については 筆者は詳しくは知らないし、知っていてもここで書く必要もないのだが、 前谷口監督の選手との折り合いがあまりよくなかったことを筆者も伝え聞いて いたこともあり、とにかく監督交代によっても国際大というチームが、 わりと明るい雰囲気のチームになったという印象は持った。もともと、実力は あるのに個々がバラバラに野球をやっていた印象があったチームだっただけに、 その変わり様には、少し驚いたことを覚えている。

その後国際大は次のような戦績をたどる。

平成10年秋の足踏みはあったものの、わりと順調に成績を残してきていると 言っていいだろう。国際大の復活、その直接のシーズンとなった平成11年春 だけでなく、平成9年秋からの4シーズンというスパンで見てみると、 その中心となったのは野手の中心の天田雅伸、そしてエースの橋本直弥だろう。 両者が残してきた成績を次に示す。
天田の個人成績
シーズン 個人成績
平成9年秋 46打数16安打1本塁打、.348
平成10年春 43打数17安打5本塁打、.395
平成10年秋 42打数19安打1本塁打、.452
平成11年春 42打数9安打1本塁打、.214
橋本の個人成績
シーズン 個人成績
平成9年秋 8試合3勝2敗0S、防御率3.12
平成10年春 7試合4勝0敗1S、防御率1.65
平成10年秋 10試合6勝1敗0S、防御率1.66
平成11年春 9試合6勝1敗1S、防御率2.31

天田は、筆者もわりと早くからそのセンス・実力を認めてきたつもりの選手である。 右投げ左打ちの遊撃手。打てて走れて守れる選手である。大柄ではないが 長打を打つ力も持つ、相手にとっては非常にイヤな打者である。その天田が 2部で残してきた個人成績もなかなかのものなのだが、実はこれはズバぬけた 成績ではない。天田自身がだいぶ気にする、個人タイトルについても平成10年秋 に最多盗塁のタイトルを獲っただけで、打撃部門のタイトルはない。天田が 残した程度の成績を残せる選手がいないかというとそんなこともなく、例えば 天田の先輩にあたる菅野英雄(東京国際大出身、平成8年度4年生)も打てて 走れて守れる選手、平成8年春には最多本塁打・最多打点の2冠を獲って2部 優勝に貢献している。例えば日大生物の下嶋由継(現4年生、佐野日大高校出身) は平成10年の春・秋と2シーズン続けて4割を越える打率を残している。 天田が残した個人成績は失礼かもしれないが、だいたいチームに一人くらいそのくらいの成績を 残す人間もいるだろう、というくらいの成績だったとも言える(守備での貢献度等、 数字で計りにくいものもあるが)。しかし天田がチームにとって本当に貢献した のは、個人の成績によるものではないと筆者は考えている。その影響力、その 存在こそが非常に意味があった。天田が1年次の秋、と言うと言い過ぎとしても 2年次の春(平成10年春)にはもう、3・4年生を押し退けてチームの精神的な 柱というかんじだった。4番で主将で正捕手も務める鬼沢智宏(平成10年度4年生、 勝田高校出身)さえも大事なところで天田の顔色をうかがってリードしているのでは ないかと筆者は感じるくらいだった。天田の存在感を裏付けるデータもあり、 平成9年秋から平成10年春の入れ替え戦までの23試合で、天田が無安打の試合 で2勝4敗、天田が2安打以上打った試合では8勝4敗1分だった。また、 天田が失策した5試合で2勝3敗だが失策のなかった18試合で12勝5敗1分だった。 このときの国際大は、全員が天田を見て試合をし、重苦しい試合も「天田なら なんとかしてくれる」という思いで耐え、その期待に天田が応えたときに 一気にプレッシャーから解けて実力が並程度の他の選手までもが急にいい打撃を したりする、そんなチームだった。

そんな国際大だが、チャンピオンの立場で迎えた平成10年秋のリーグ戦は苦しんだ。 それまで天田が打てば活気づいていたチームが、天田一人が打ってもなかなか つながらず、波に乗れない。その中で打線に助けてもらえず、春まで2番手投手として サポートしていた川内真之(当時4年生、徳島城南高校出身)が引退した状況の中で独力で マウンドを守ってチームを支えたのが左腕の橋本直弥である。貧打線の 援護なく1点もやれないような試合展開、延長戦を繰り返す戦いといった 中でも黙々と投げ続け、6勝を記録した。 全試合に登板して70イニングを越えるイニングを投げたこともすばらしい。 惜しくも優勝はならなかったがこのシーズンを辛うじて2位で終えたのは、 チームの7勝中6勝を挙げた橋本のおかげであることは疑う余地がない。

さて、その橋本さえも本調子でなかったのが平成11年春である。筆者は このシーズンからはほとんど試合を見ていないので細かいところはわからないが、 なんとかとりつくろった成績はともかく、内容としてはぜんぜん橋本 らしくなかったというのが、筆者の後輩や他チームの一部から共通して 聞かれた。加えて天田も不調だったようである。これまで天田・橋本の おかげで勝ってきたチームなのにその両者の不調。案の定、開幕4戦で 2勝2敗のスタートと苦しんだが、そこからの6連勝で優勝を決めた。 さらに結果的にこのシーズンで1部昇格を果たすことになるから、不思議な ものである。筆者はこのシーズン、国際大の試合はリーグ戦を1試合、 入れ替え戦を2試合見ただけなのでこのシーズンの国際大の勝因ははっきりとは わからない。その中で原因を考えていくと、天田・橋本以外の選手たちが 二人にひっぱられるうちに成長し、自覚を持っていったのかもしれないという 気もしてくる。このシーズンから4番を務めた石川敦史(現3年生、東和大昌平 高校出身)は、打率.368、8打点の成績を残し、対農工大2回戦では延長戦の末に 勝負を決めるサヨナラ本塁打も打っている。2番セカンドの越智孝宏(現3年生、 足利工大付属高校出身)は小柄で打力がなさそうな打者で、成績も12打数3安打と 確かに大した成績ではないのだが、12四死球を選んで最優秀出塁率のタイトルを 獲得している。チームのために選球とバントをやりぬいた結果としてのタイトル だったと言えるだろう。そして入れ替え戦では第1戦で橋本が無残なKOを 食らってコールド負けを喫するも、第2戦では2番手投手・長島紘太(現3年生、 東京農大第三高校出身)がすばらしい投球を披露し、5-1で勝利。第3戦は 筆者は観戦していないのだが、二転三転する試合の中で、このシーズンばかりは 周りの選手に助けてもらった天田が同点の終盤に、チームメイトへの御礼本塁打。 橋本・長島に加えてリーグ戦でも登板経験のない1年生投手も継ぎ込んで辛うじて1点差で 逃げ切った。このシーズンの国際大の勝因を、東京理科大学の藤島由幸君 (現3年生、三条高校出身)は「守備の堅さ」だったと言う。平成9年春までは 打撃能力のありそうな選手をそろえながら、個々人がバラバラに野球をしていた国際大が、 天田にひっぱられ、しかし天田一人の力ではなくみんなの力を合わせ、 各自ができること、まずしっかり守ることから始めての成功だったような気がする。


ここまでの話で国際大復活の立役者、一人は天田であることはわかってもらえた ことと思う。天田一人の能力という点でも周囲に与える影響という点でも天田は 今の国際大に非常に大きな貢献をした一人である。ただ筆者は、国際大復活の 立役者が少なくともあと一人はいると思っている。誰か? すでにその活躍ぶりを 紹介している橋本は、成績の面で天田と並ぶくらいの貢献をしており、まぎれも なく立役者の一人とは思うが、筆者はここでは別の人物を挙げたい。新井監督である。

筆者が新井監督を知ったのが平成9年秋。当時筆者は東京農工大のコーチ。 新井監督と立場は異なるものの、シーズンの戦いが進むうちに、なぜかわからないが 「この人に負けたくない」「でもある意味ではこの人みたいになりたい」という ような、ライバルとも目標ともとれない対象、不思議な気持ちで見るようになった。 それから筆者が東京農工大を離れる平成10年秋まで3シーズン、我々は国際大との 直接対決を2勝4敗、順位にすれば1度も国際大を越えることはできなかった。 平成10年春、激しく優勝争いを展開して「勝った方が優勝」という最終戦を 国際大と戦ったが、この試合に大敗した我々は悲願の優勝を逃している。 さらに今は国際大は1部のチーム、筆者の母校は2部のまんなかあたりをうろうろ している。これまでに筆者は先に述べた「新井監督に負けたくない」の気持ちが あって新井監督の采配に対して批判的ととれる "ひとりごと" を書いているが (こちら)、今は素直に新井監督のすごさを認めるという 気持ちになっている。さらに今さら認めるわけでもないが当然、「負け」を感じている。

新井監督はどんな人なのか? 実は筆者は話したことは1度だけで、あまりよく 知らないというのが実際のところなのだが、その人物評みたいなものは、 先に挙げた "ひとりごと"(平成10年6月執筆)の中で書いたものとほとんど 変わらない。選手起用や戦術を見ても、大きくは動かない、「静」のタイプの人で、 ある程度までのがまんをする。おそらく自分の中にちゃんとした信念のような ものを持っている人だと思う。ただ、「静」のタイプではあるが勝負どころの 見極め、あるいは使えない選手に対する見切りなどは鋭い印象がある。 冷静、少し悪く言えば冷徹で、勝つことだけを考えてそのためにはなんでも できるという人だと思う。

その新井監督が4シーズン、どう戦ってきたかを振り返ってみる。就任1シーズン目は 杏林大との優勝争いを展開したものの杏林大との直接対決で2敗。優勝がなくなった 終盤にさらに星を落とし、2位とは言え5勝4敗1分の戦績で終えている。 就任1シーズン目、チームの戦力の把握もあまりできなかったかもしれないこと、 また前のシーズンに最下位争いしたことを考えればこの戦績は、よくも悪くも ないといったところだろうが、杏林大の優勝決定後に新井監督は、杏林大の 内藤高雄部長(現杏林大監督、杏林大の助教授である)と話をしている。 これは筆者が内藤部長から直接聞いた話であるが、チーム作りの仕方、成功の 秘訣といったものをそれとなく聞いてきたというのである。そして就任2シーズン目に 2部優勝。奇しくも杏林大と入れ替え戦を戦うことになったが、大熱戦の末、 1勝2敗で敗退。3シーズン目は序盤から苦しい戦いが続く。前のシーズンでは 天田が打てば他の選手もイモヅル式に呼応して打ったがこのシーズンはそうは いかない。攻撃面では作戦を駆使して細かく点を取りに行き、守備面では 徹底的にエースの橋本を使い切って防御中心の戦いを展開したが、バカみたいな 打線の破壊力を持った日大生物の勢いに一歩及ばず、日大生物が優勝。 そして4シーズン目にもう1度2部優勝を果たし、1部昇格にまでこぎつけた わけである(先に出てきた杏林大の内藤部長は、平成10年暮れの段階で「新井監督は 近いうちに国際大を1部に連れてくるんじゃないの?」と言っていた。まさに その通りとなった)。

筆者は新井監督と話したのは1度だけなのだが、その中で感じたのは、今の 国際大の精神的支柱である天田に対してあまり過大な評価をしていないのでは、 ということである。もちろん、「天田がいなかったらこのチームはどうにもならない」 とは思っているだろう。ただ、天田の実力があればもっともっと上を目指して ほしい、という気持ちもあるのだと思う。また、新井監督が最も買っていたのは 越智だったという話も伝え聞いたことがある。小柄で地味だが打線においては しっかり2番のつなぎの仕事ができ、またセカンドの守備がとてもいい。こういう、 守備的な選手を高く評価するあたりがなかなか興味深い。天田が、打撃においても 守備においても、基本的には攻撃的な選手であることも合わせて考えるとなお興味深い。 何が言いたいかと言うと、次のようなことである。
新井監督も就任したころは、将来的に、ごく近い将来的に天田を中心とした チームを作っていくことを考えていったと思う。そして意図するまでもなく、 選手たちは勝手に天田を頼り、天田を精神的支柱に仕立てあげ、平成10年春に 非常にいい形で優勝を果たした。しかし続く平成10年秋には天田は打っているのに 他の選手がのきなみ不振で惜しくも優勝に手が届かなかった。どこからかは わからない、しかし新井監督は天田頼みのチーム作りでは将来的に大きな飛躍が 望めないと踏んだのではなかろうか。例えば2部で優勝できても1部には行けない、 というかんじで。天田抜きでも点が取れる形、勝っていける形。それが徹底的に 守備を固め、そしてもともと定評のあった新井監督の継投策をからめて僅差の試合を 拾っていく形だったのではなかろうか。そんなことを新井監督がわざわざ選手たちに 伝えたとは思わないが、そこにちょうど、「天田だけじゃない。俺たちもやれる。 やるぞ」という他の選手たちの思いもわりといいかんじで重なって、こういう 結果になったのではなかろうか。


国際大復活の要因。天田という一人の選手の周囲にもたらす影響の大きさ、 そしてその天田をめぐってチームの戦い方を模索した新井監督。そのようなことを キーにして書いてみた。攻撃的で「動」のタイプの天田と守備的で「静」の タイプの新井監督、両者はタイプが違うと思うのだが見方によっては それだからこそ、国際大の成功があったのかもしれない。


従来から筆者の "ひとりごと" は、当事者たちへの取材をほとんど行わずに 書いているわけだが、今回は特に自分が現場を離れたあとの執筆ということで 「〜と思われる」「〜という印象がある」「伝え聞いたこともある」 等の予測の域を出ない記述が多いと、 自分でも思う。当事者がこれを読むことがあるかわからないが、筆者自身が 事実を知りたいという気持ちがあること、また今後の執筆のための参考に したいということもあるので、賛否を問わず、また当事者以外の方からでも 広くご意見をいただければ幸いである。


筆者のメールアドレスは yozo@msf.biglobe.ne.jp

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