6年にわたる大学野球生活に終止符
1人の野球少年の置き手紙

筆者の大学野球生活が、平成10年11月7日で終わった。所属する東京農工大学 硬式野球部の秋季リーグ戦がこの日で終わり、所属する東京新大学野球連盟の 2部で1位にも6位にもならずに入れ替え戦はなかったのでリーグ戦最終戦が 大学野球生活最後の試合となった。ただ、スコアラーという立場も持つ筆者個人 としては、11月21日〜23日の1・2部及び2・3部の入れ替え戦を観戦して スコアをつけ終わってやっと終了、という思いの方が強い。まあ、いずれにしても 終わったのである。

実は3年前も同じような気持ちになっている。平成7年秋、当時大学3年生だった 筆者はこのシーズンを最後に現役を引退することを決めており、シーズンが終了した あとは漠然とだが「終わったのだなあ」という気持ちになっていた。結果的にはその 時点は単なる通過点でそのあとにもう3年もの大学野球生活が待っていた。 現役こそこの時点で引退するが、平成8年春は中途半端な "監督" 役で、 大学卒業・大学院進学を果たした平成9年春から4シーズンはヘッドコーチという 肩書きで(実際はスコアラーとしての役割が大半だったと思う)チームに所属した。 都合6年間、11シーズン(平成8年秋は除く。筆者は大学4年生で、卒業研究に 追われていた)。一般の学生よりも長く大学野球をやれたことをうれしく思っている。

6年間という時間は長かった。大学受験の段階、もう少し言って大学入学直後くらいは 硬式野球を続けることすらちゃんとは考えていなかったがここまでやれて大方満足は している。普段は両親に対してあまり感謝の意を持たない筆者だが、いろいろな面で 野球をやる筆者を支えてくれたことには感謝している。自分としては、ヘッドコーチと しての2年間が立場が微妙で難しかった。コーチと言っても後輩に教えてあげられる ような技術や理論は持ち合わせていなかった。特に最後のシーズンは自分がチームに必要 ないのでは、と思ったり自分だけややみんなと離れた存在になって溶け込んでいなかった のは感じていたのだが(後輩はそうは言わないかもしれないが)、自分がやりたかったから 続けた。「チームのために」とか言えばかっこいいが、何より自分のために、自分が やめたくなかったから続けた。もちろん、チームに迷惑はかけないようにとは考えたが。 そういう意味で、コーチという肩書きを与えてくれた後輩たちには感謝している。

そしてこの6年間では非常に多くのことを学んだように思う。まずは野球の技術や 理論や考え方を先輩や同期生たちに教わったことがあげられるが、後輩たちにも それらを教えてもらえたように思っている。コーチという肩書きながら自分が 後輩たちに教えてあげられたことはほとんどなかったと思うのだが、後輩たちから、 直接というよりプレーや姿勢で教わったことは多かった。個々の能力を集めただけ ではチームが機能しないこと、まとまりや役割分担こそチームに必要なこと、 あきらめてはいけないこと、信じることの強さと大切さ、攻める気持ちを忘れては いけないこと...。思いつくだけでもこれくらいは挙げられる。コーチでの2年間は 明るく楽しい後輩に「囲まれて」とまでこちらが溶け込んでいなかっただろうが、 彼らを見て野球ができてよかったと思う。

そして人間関係に関しても得るものがあったように思う。筆者は大学2年次から 5年間、当連盟2部では3年次から4年間、自チーム以外の試合は分析のために ほとんどバックネット裏でスコアをつけてきた。当初は「なんだろう、この人。 いつもいるけど」といったかんじだったと思うのだが、次第に他チームとの交流も 深まってきた。なんだかんだ他チームと言ってもチーム固定のリーグ戦だし、 シーズン中の2ヶ月は同じ時に同じ場所で野球をやるわけだから本来他チームとの 交流はできていっておかしくないものだ。筆者の場合はインターネットでの試合速報 や配布プリントによるシーズン途中の経過報告 などの作成のおかげもあり、特に最後の2年間では一気に交流が広がったように思う。 印象深いできごとには、こんなことがあった。平成8年春、我々農工大は杏林大に 勝つために、相手の捕手で中心選手の飯塚和男(当時3年生、宇都宮工業高校出身)を ヤジでキレさせるという作戦を使い(我々が使ったというより筆者個人が使ったと 言っていいだろう)、その作戦は成功して一応杏林大との2試合をものにできた。 この2試合は優勝を争っていた杏林大にとっても最下位を争っていた我々にとっても 大きな意味を持つものになったのだが、こんな筆者にも少しは罪悪感のようなものが あった。時は流れて平成9年秋、杏林大が2部優勝を飾り、入れ替え戦にも勝って 1部昇格を果たしたとき、ねぎらいの言葉でもかけようと杏林大ナインに近づいた。 このときエースだった川野辺篤(当時4年生、多賀高校出身)とは交流があったので 軽く会話をしていたのだがその際飯塚とも話す機会があった。そのときに当時の無礼を 詫びたのだが、「気にしてないです」といったことで笑顔で許してくれた。こちらは 申し訳ないと思っており、しかも1年半にわたってそのままにしていたのだが、 このときに非常に救われた気分になった。この一件はこれから自分周辺の人間関係を 考えていく上で大きな一件になるな、と自分で思ったものである。そういったことも含め、 いろいろお世話になった他チーム、杏林大をはじめ東京国際大、東京理科大といった 大学に対しては特に感謝の気持ちがある。


6年間という時間は長いので、思い出は数多くある。その中でいくつか挙げると すれば、まず平成6年秋の3部優勝・2部復帰だ。リーグ戦10連勝、入れ替え戦 2連勝、練習試合等を含めて約4ヶ月負け知らずだったあのときのチームは、 当時2強4弱だった2部の中でもまんなか以上のランクを狙えたのではないかと自負 している。あとは先に挙げた平成8年春の杏林大戦の2勝。平成7年春に4点差を 9回にひっくり返して勝った杏林大戦も含め、杏林大との対戦は思い出深いものが 多い。コーチになってからの試合では、平成9年春に理科大から5点差を終盤に逆転 した試合をよく覚えている。勝悟・敬蔵・前田の3者連続本塁打で、自分も飛び跳ねて 喜んだ気がする。個人的には平成7年春に記録したリーグ戦唯一のヒットが印象に残る。 飯能市民球場でこれも杏林大が相手で、ピッチャーは2部の中でもトップレベルに 近い井澤俊介(当時3年生、作新学院高校出身、筆者の同期にあたる)だった。 この試合はリーグ最終戦の消化試合で、補欠だった筆者の先発はあらかじめ 言われていて飯能駅から球場に向かう途中に少し緊張していたのを覚えている。 とにかくこの1本は大事な思い出として胸にしまってある。悪い思い出は、平成5年秋 の3部転落。当時1年生だった自分がチームのために何もできなかったのが今と なっては悔やまれる。あとは平成10年春の「勝った方が優勝」という国際大との 最終戦に大敗したこと。これもやはり試合が始まってからは何もできなかったと 言ってしまえばそれまでである。あと、平成6年春のシーズン中に先輩の主将を辞任に 追い込んだことも覚えている。このことはいい思い出でも悪い思い出でもない。 このときの自分の言動は正しかったと今でも思っているし、そのときの言動を先輩に 謝罪したい思いも強い(謝ればいいという問題でもないかもしれないが、2年くらい前に 酒を飲みながら謝罪したことはあった。そのときは双方理解し合っていたように、 筆者は思っている)。


後輩、及び東京農工大学硬式野球部に残していきたいこと。これは実はたくさんある。 コーチとして教えられるようなことがあまりなかったわりには口だけ達者なのは なかなか変わらないようだ。後輩たちには、当然強い野球部になってほしいし、 いずれ1部で活躍してほしい。ただ自分が在籍中にその何の準備もできなかったのは 悔いが残る。ここ数年見てると、やはり1度2部でポンと優勝してすぐに1部に 昇格できるケースは少なく、何度か優勝を重ね、入れ替え戦を重ねていくうちに やっと昇格できるというかんじだ。筆者は2部で9シーズン戦いながら優勝は0。 まして最近は最下位を免れることはできていて今の現役の連中は入れ替え戦を知らない。 このことはいざ1部昇格を目指せる状況になったときに大きなマイナスになると思われる。 筆者は自分も2度入れ替え戦を経験し、平成7年春以降は毎シーズン他人の入れ替え戦を 観戦に行ったのだが、そこで得た知識等を伝えられなかったことは申し訳なかったと 思っている。

また、この野球部が多方面において充実した野球部でいてほしいと思っている。まず 野球で強くなるのはもちろんだが、それだけであとがおざなりになるような、どこかの 野球部のようにはなってほしくない。例えば創価大学の硬式野球部のように、 人間的にも教育されているような印象を外に対して見せられるような部になってほしい (かんちがいしないでほしいが、何も創価大学と同じようにやらなくていい。あまり がんじがらめで厳しくしなくても人間教育はある程度できるはずである)。また、筆者は 平成6・7・9年に本学硬式野球部OB諸氏に対するリーグ戦戦績報告冊子の作成に 携わり、平成9年にはOB諸氏に対する電子メールによる試合結果速報をはじめ、 公式ホームページの開設をした。現在これらは後輩に引き継いでいるが、この活動を 最低限続けていってもらいたい。形態や方法は変わっても質を落とさずに、である。 これができたからと言って充実した活動ができている部と言えるわけではないが、 今後こういう活動をする野球部も増えてくるだろう(すでにやっている部もあるだろう)。 お世話になっているOB諸氏に対してできる範囲の活動を続けていってほしいと思っている。 筆者もそうだが、結局みんなOBになるのだから。あとは、リーグ戦における審判・ 記録等の当番も今の2部ではあるのだが、これらもおろそかにしないでほしい。 これらをおろそかにするチームは多いのだが、これらができていないチームは野球の レベルも低いと思われてしまう。今の段階で我々はわりとできている方だと思うが、 今後もこの質を落とさずにがんばってもらいたい。記録の話が出たのでマネージャー の話にも触れるが、うちの部のマネージャーは毎年よくがんばってくれていると思う。 欲を言えば下級生にもっとがんばりがほしいが、みな最上級生になると自覚が出てきて がんばってくれるので、筆者もわりと頼もしく見ていた(なんて言うと 「本当に信頼していてくれましたか?」などと言われてしまいそうだが)。 その仕事ぶりは他の2部のチームのマネージャーと比べても負けていないと思っている (そんな狭い世界で評価しても仕方ないが)。OB諸氏へのサポートもしっかり引き継がれている。 今後もこれまでのノウハウをうまく引き継いでいってもらいたい。 筆者の考える野球部のスタイルは「マネージャーも含めて戦力」である(自分で言うのも なんだが、コーチやスコアラーも含めて、である)。地味かもしれないがマネージャー も選手同様、自分がチームにとって大切な一人であることを意識し、そのパーツ としての役割が全体に対して生きてくることを頭に入れて、よりよいマネージャーぶり を期待したい。

とにかく長く大学野球をやったという感覚は自分でもあるのだが、それでは完全に 満足しているかと言えばそこまでは言えない。2部で優勝できなかったことなどが まず後悔の一つに挙げられるのだが、とにかく「6年間よくやった」というような 気もするし「まだやり残していることがある」というようにも思う。結局今は よくわからないのだが、みんなにはやっぱりフルに野球をやってほしいと思う。 最近はうちのチームでも4年生の秋まで現役を続ける傾向になってきているようで、 非常にいいことだと思う。今しかできないし、みんなある意味ではバカなんだと思う。 それは頭が悪いとかのバカではなく、高校まででかなり一生懸命野球をやってきた はずでなにも大学入学後も同じ選択をする必要などなかったはずなのにこの選択を してきたわけだから、よほど好きなのだろう。それならやれるところまでやればいい。 それがいい経験にもなると思う。「チームのために」とかあまりかっこつけなくていい。 自分のために現役を続けていいと思う。もちろん、試合では「チームのために」だが。 試合に負けても自分の打率がよければ満足しているような、優勝できなくても 個人タイトルを獲って満足するようなチームにはならないでほしい。
チームとしては、農工大野球部のカラーというか特徴を大事にして戦っていってほしい。 今の我々が勢いに乗ったときの強さは2部のどこのチームも恐れているはずである。 それは大きな長所になると思う。そして「全員で全力で」。個々の能力が足りない ところや練習環境に恵まれないことに負けず、どうしたら勝てるかをみんなで頭を 使って考え、気持ちを前面に出して、目の前のワンプレイに全力を尽くすような、 そういうチームになっていってもらえるととてもうれしい。


長くなった。6年間の大学野球生活は得るものが多くて充実していたこと、 後輩をはじめ多くの関係者に感謝していること、農工大野球部が充実した 活動をする部になっていってほしいこと、これを書き残しておきたかった。 少し欲を言えば「俺のこと忘れないでほしい」とも言いたいが、まあ、それは 時がたてばどうしようもないだろう。「ありがとう」と、「さようなら」、 といったところか。終わりにしよう。


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