あくなき挑戦、度重なる悲運、スターたちが跳ね返された壁・・・

杏林大学の出口なき戦いに終止符を打ったのは "ごく普通" の男


(東京新大学野球連盟2部に所属する東京農工大学の山口陽三が、 東京新大学野球連盟の1ファンとして独自の観点で勝手に語ります。 また、文中一部の方を除いて敬称は略します。)

平成9年秋のシーズン後、東京新大学野球連盟の1・2部間で入れ替わりが起こった。 このシーズン、2部のリーグ戦を8勝1敗1分で制した杏林大学が、 入れ替え戦で1部最下位の日本大学生物資源科学部に2連勝、 2試合とも大勝で寄せつけずに1部昇格を勝ち取った。筆者は平成7年から 平成10年まで8シーズン、1・2部と2・3部の入れ替え戦を観戦してきたが このシーズンの杏林大と日大生物の入れ替え戦は、結果的に見るとドラマ性に 欠ける入れ替え戦だった。2試合とも一方的な試合で、言わば日大生物側が かなり弱っていたための入れ替わりだった。そういう意味で、これまでに 入れ替え戦を観戦していくつか「ひとりごと」を書いてきた筆者も この入れ替え戦に関して書くつもりは当初なかった。

ところが平成10年秋、筆者自身はこのシーズンを最後に大学野球から離れる ことになったのだが、そのシーズン後に杏林大学野球部部長の内藤高雄助教授 (現在正式には部長でないようだが平成4年から平成9年までは部長を務め、 今も野球部に携わっている)と会って食事をさせていただく機会があった。 氏とは、ともにリーグ戦を戦う中でなんとなくよく話をするようになり、 そんな経緯で平成10年の暮れに、筆者が間もなく大学を離れるということもあり、 食事に誘っていただいたのであった。実は筆者は平成7年秋、平成8年秋と 杏林大が2部優勝を飾って1部に挑戦した入れ替え戦についての「ひとりごと」 をすでに書いており、内藤氏もそれを熟読されていた。ところが、杏林大側から 見れば "肝心の" 平成9年秋、1部昇格を決めた入れ替え戦の特集がない、 ということを内藤氏に言われた。ぜひ書いてほしいとも言われ、それまでに 杏林大が歩んできた苦難の歴史も話していただいた。筆者もこの連盟では 6年間大学野球を過ごし、杏林大の苦難のうちの半分くらいは認識している ものと自負してはいたが内藤氏の話に改めてその認識を深めた。 平成9年秋の入れ替え戦自体に大きなドラマ性がなくともそれまでに彼らが 歩んできた歴史を考えれば十分にドラマチックな入れ替え戦だったようである。 酒を飲みながら聞かされた話ではあるが内藤氏の話をまとめ、自分なりの 見解も含めてその苦難、悲運を振り返ってみたい。

杏林大がこの連盟に加盟したのが昭和62年。現在20大学が所属する当連盟の 中でも新しい方である。当時は3部制だったが(現在4部制)、加盟当初は 3部でもなかなか勝てない時期があったようである。それでもおそらく平成に 入った頃には2部に昇格していたものと思われる。内藤氏が杏林大野球部の 部長に就任したのが平成4年(3年?)。そのころはすでに2部の中で常に 優勝争いに参加できるチーム力を持っており、内藤氏自身も1〜2年のうちに 1部昇格を果たすというつもりでいたようである。内藤氏の就任の前にも 1度か2度、2部で優勝して1部に挑戦しており、1度は古豪の東京学芸大 と入れ替え戦を戦い、僅差で敗退したようである。当連盟発足当時から 所属し、今も1部で安定した実力を保ち続ける東京学芸大学の歴史の中で そのときは唯一の1部最下位だったとかで、ことのほか入れ替え戦で苦労 したことが東京学芸大側からすれば印象強いらしいのだがその相手だったのが 杏林大らしいのである。内藤氏が1〜2年のうち1部昇格を果たすつもりなのは 十分にわかる。そしてそれだけの戦力を有していたと内藤氏は言う。
ところがそのあたりから杏林大の悲運がつきまとうシーズンが続く。常に 1部を狙える戦力を持ちながらそれを果たせない。平成4年春には優勝しながら 入れ替え戦で敗退。同年秋には9勝1敗の戦績を残しながらそれでも優勝 できなかったのである。この年は、おそらく筆者が見た2部の選手の中で 最も野球センスがあったのではないかと思う、小林史和(盈進高校出身)が 3年生。4番でサードを務め、ピッチャーもやっていたということである。 その他にも実力のある選手がそろっており、筆者も先輩たちから杏林大の 強さは聞かされていた。結局このシーズンは同じく9勝1敗で並んだ日本工業大が 得失点差で優勝をさらうことになるのだが、その、日本工業大に喫した杏林大唯一の 1敗の試合も惜しかったらしい。当時2年生の川上尚悟(由来育英高校出身)を 先発させて小林への継投で逃げ切る公算だったこの試合に、2回の攻撃で 出塁した小林が牽制球を頭に受けて退場。それでも中盤まで5点のリードを 奪ったらしいのだが川上がつかまり、逆転で落とした試合だったというのである。 そのあたりから悲運が本格化してきたのか、筆者が入学する平成5年になると それまで2部のまんなかあたりのレベルをうろうろしていたらしい工学院大が 急浮上。付属高校から有能な選手が、具体的に言えば板橋虎太郎・高田建の 2人が平成5年に入学し、工学院大が急激に力をつけた。平成5年春に 優勝を飾った工学院大は、同年秋には板橋・高田の2枚看板の体制が できあがり(2人は投手としても打者としても高い実力を持っていた)、 以後平成7年春まで2部で5連覇を飾る。その間工学院大が1部に昇格 できなかったのも見方によっては杏林大にとって悲運ではあるが、結局 この間すべてのシーズンを杏林大は工学院大に次ぐ2位で終わる。小林 が4年生で主将となって完全にチームの大黒柱になった平成5年は、 右下手投げの川上に加え、作新学院高校でエースナンバーをつけていた 井澤俊介も入学し、筆者から見れば杏林大は工学院大より強く見えたが、 春は2部最下位の東京都立大学に乱戦の末、秋は2部5位の西東京科学大学 (現帝京科学大学)に失策で与えた1点が致命傷となり、いずれも痛い1敗を 喫した。平成6年春は小林は抜けたが強打の捕手、中野貴仁(岩倉高校出身)が 主将に就任し、投手も川上・井澤の2人が健在だったが工学院大との 直接対決を2敗。2戦目は「勝った方が優勝」というリーグ最終戦と なって中野が高田から2点本塁打を放つなどして延長戦にまでもつれこんだ らしいが惜しくも1点差で敗退。同年秋は再び取りこぼしのくせが出て、 このシーズンの最下位校(しかもこのシーズンで3部に転落することになる) 日本工業大に1敗を喫し、またも2位。平成7年は、鎌倉学園高校が 神奈川県大会で準優勝したときのレギュラーである、走攻守そろった三村俊治 が主将に就任するも、中野・川上の卒業もあり、エースの井澤も本調子でなく 優勝争いをしない2位に終わる。 このシーズンでようやく工学院大が1部昇格を果たして2部から いなくなり、杏林大は同年秋にようやく6季続いた2位から抜け出して優勝を飾った。 主将の三村が首位打者と最優秀出塁率と最多盗塁のタイトルを獲得し、 エースの井澤は最多勝利と最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲得。 8勝2敗で優勝を飾り、平成4年春以来の入れ替え戦に臨むも出てきた1部 最下位校が伝統を誇る古豪の高千穂商科大。実力的に最下位にならなくて よさそうなこの大学が、監督と選手の間の折り合いが悪かったとかで たまたま最下位となって出てきてしまった。杏林大は第1戦を井澤の 165球の完投でものにしたもののこの試合こそ精一杯。第2戦は井澤を 温存させて大敗し、第3戦は井澤自身は力投していたのだが打線の援護が 少なく、守備も足を引っ張り惜敗。1部昇格はならなかった。平成8年春は チームもうまく波に乗らず、我々東京農工大によもやの2敗を喫するなどして おそらく久々となる3位。井澤がラストシーズンを迎えた同年秋には 9勝1敗で優勝を飾り、2年連続となる1部挑戦を果たしたが、日大生物との 入れ替え戦では大接戦の末1勝2敗に終わり、またしても昇格はならず。 このときの杏林大はすでにスーパースターのような選手は井澤だけ。小林も 中野も三村ももういない(中野は平成8年秋は監督だったが)。そしてその 井澤も卒業を迎え、筆者は「今後1〜2年は、急に弱くなることはないだろうが、 長期的に見れば杏林大は少しずつ落ちていくだろう」と予測した。


迎えた平成9年春、杏林大は投手陣の層の薄さを露呈した形で3位に終わる。 エースの川野辺篤(多賀高校出身、当時4年生)は井澤の2番手として2年間 中継ぎなどで投げていた右の下手投げ投手で、このシーズンも先発にリリーフに まずまずの投球をしたものの控え投手の渡部真弘(茅ケ崎高校出身、当時3年生) はコントロールに難があり、渡辺俊裕(東京高校出身、当時3年生)は四球からは 崩れないが球に力がなく、長いイニングは苦しいといった状況だった。シーズン途中には 最下位の可能性まで出てきた杏林大だったが、結局この3投手だけでシーズンを まかなった。シーズン中には「いい1年生のピッチャーが入った」と筆者も 聞かされたのだが結局このシーズンは最後まで1年生のピッチャーを使わなかった。
迎えた秋のシーズン、杏林大は3年連続となる「秋優勝」を飾って1部に挑戦し (都合6度目の挑戦くらいだと思う)、結果的に悲願の1部昇格を勝ちとることに なる。そのシーズンを簡単に振り返ろうと思う。雨による日程の順延で9月20日に 杏林大は開幕を迎えた。その相手は2部ナンバーワンに近い安定間を誇る 白坂公一(仙台第一高校出身、当時1年生)を持つ東京理科大だったが、 その白坂が試合に遅刻。控え投手から3回で7点を奪った杏林大はエースの 川野辺から1年生の新村正憲(相武台高校出身)につなぎ、終盤までに 小刻みに追い上げられながら7-5で逃げ切り。この白坂の遅刻も杏林大に してみればついていたのだが、内藤氏によれば開幕が遅れたのも杏林大に ついていたとのことである。4番を務める主将の飯塚和男(宇都宮工業高校出身、 当時4年生。平成9年春から秋にかけて13試合連続安打の、筆者把握の範囲での 連続試合安打を記録。1年後に東京農工大・信田に記録は破られた。)が 腰を悪くしていたらしく、少しでも遅い開幕の方がよかったとのことである。 続く第2戦は我々東京農工大に、延長戦の末惜敗するものの第3戦、 2部転落によってこのシーズンから再び2部で戦うことになった工学院大に 4回で1-7とされ、コールド負けの展開となるも5回の攻撃で村上貴洋(盈進高校出身、 当時3年生)が放った打球が工学院大のエース・岡川貴光(工学院大学付属高校出身、 当時2年生)の足を直撃。岡川は6回途中で降板し、そこから杏林大が猛反撃。 8・9回で9点を奪って大逆転勝利を収めた。第4戦の東京国際大戦、 第5戦の駿河台大戦を川野辺で勝った杏林大は第6戦に東京理科大を 迎えたものの前日の試合で白坂を使っていた東京理科大は白坂を登板させず、 杏林大が大勝。第7戦は岡川の負傷で完全にチームの士気が落ちていた 工学院大に新村の完封勝利で勝ち、6勝1敗で第8戦の東京国際大戦を迎える。 ここまで唯一杏林大についてきていた東京国際大との首位決戦は、 杏林大にとってみれば「勝てば優勝」の試合だった。試合は川野辺と、 相手のエース・橋本直弥(坂戸高校出身、当時2年生)の投げ合いとなって 投手戦の展開だったが7回に杏林大が代打渡部の2点本塁打で先制。 8・9回にも小刻みに加点した杏林大が、最後は川野辺が追い上げを食い ながら4-2で逃げ切り、優勝を決めた。
このシーズン、1部最下位校として入れ替え戦に出てきたのは日大生物。 1年前の入れ替え戦と同じ顔合せになった。このシーズンの1部は、 昇格したばかりの日本工業大が日大生物から勝点を挙げ、高千穂商科大と 日大生物を含めて3チームが勝点1で並んだ結果勝率で日大生物が 最下位に。ただ3チーム並んだと言っても日大生物の試合内容は必ずしも よくなく、日本工業大には1敗1分で迎えた第3戦にコールド勝利間近から 大逆転を喫して勝点を落とす始末。高千穂商科大からよく勝点を取ったと 思うのだが上位校には大敗を続け、かなり悪い状態で入れ替え戦を迎えた。 杏林大に盤石の強さを感じるかと言えばそこまでではなかったが日大生物が 2部に転落しそうな予感は、筆者はわりとしていた。そして迎えた入れ替え戦第1戦、 杏林大はシーズンで最多勝利のタイトルを獲得した川野辺が先発し、 日大生物はエースの石井盛男(佐野日大高校出身、当時2年生)が先発。 初回に杏林大が先制したあとは投手戦となったが6・7回に杏林大が、 いずれも2死2塁から山本正(盈進高校出身、当時3年生)・小玉(日大藤沢高校出身、当時2年生)の、 しぶとく内野の間を抜くヒットで追加点。 今思えばこういうしぶとい点の取り方をできていたあたりが杏林大の 強さの一端を表していたかもしれない。そして石井が降りた8・9回には 日大生物の控え投手から合計7点を奪い、終わってみれば10-0。川野辺は シーズン途中とまったく変わらない抜群の安定感で散発の4安打。 直球・カーブ・スライダー・シンカーに加え、シーズン中に見せなかったと 思う縦の大きな変化球も使い、日大打線に付け入るスキを与えなかった (川野辺に聞いたところ、特別な変化球は投げていないとのこと。筆者の 勘違いか? 入れ替え戦のために温存した新球かとも思ったのだが)。 第2戦は、杏林大はリーグ戦で最優秀防御率のタイトルを獲得した、 2本柱のもう1人、新村が先発。ピンチでも動じずに平気な顔で安定した投球を 続ける新村が、川野辺に続いて好投。打線も日大生物先発の浜野善宏(日大二高出身、 当時2年生)から2回に福山真寛(駒場学園高校出身、当時1年生)の犠飛、 3回に村上貴の適時2塁打と山本正の犠飛で着実に加点。3-1で迎えた 7回裏に日大生物2番手・滝沢直己(日大藤沢高校出身、当時3年生)を 攻めて敵失で1点を追加してなお満塁として3番手に石井を引きずり出す。 そして打席には筆者がラッキーボーイと呼んできた山本貴夫(多摩大聖ケ丘高校出身、 当時3年生)。数字としてはいつも大した成績を残さないがいいところでいい 仕事をしてきた印象の強いこの山本貴がとんでもない形で試合を決めた。 石井の投じた4球目を右中間に満塁本塁打。7回裏で8-1。劇的な サヨナラの形での7点差コールド勝利で1部昇格を決めた。「ドラマ性がない」、 この場面だけはそんなことは言えない。十分にドラマチックだった。


結果的に1部昇格を勝ち取ったこのときのチームだが、内藤氏に言わせれば そこまでの結果が出るのはやや意外だったようだし、筆者としてもそうである。 というか、平成5・6・7年ごろのチームと比べてどちらが強いかと問われれば 数年前のチームの方が強かったと思う、と答えるだろう。しかし残した 結果は平成9年のチームが上である。この年の杏林大、何がよかったのだろうか?

杏林大のよさを議論する前に、この一連の1部昇格劇の一因として周囲の チームの悪さは挙げられる。このシーズン、前のシーズンの2部の覇者である 日本工業大は1部昇格でいなかったし、代わりに落ちてきた工学院大は、 退部者も出るなどチームの士気は上がらずまったく精彩がなかった。 エース岡川のシーズン途中での戦線離脱もあり、結果的に3位ながら 最終戦の駿河台大戦に敗れていれば最下位だった。4位の東京理科大は エースの白坂を杏林大との対戦で満足にぶつけられなかったし、前の シーズンで日本工業大と優勝争いを展開した東京農工大は唯一杏林大に 勝ったチームではあるがまったくふるわなかった。唯一杏林大についてきていた 東京国際大は杏林大に対する苦手意識が先行したのか、直接対決を連敗。 そして入れ替え戦に出てきた日大生物は、後に筆者がこの入れ替え戦を 「日大生物の認定転落」と名づけるほどの低落ぶりだった。杏林大の 実力は多分に評価するが、運がわりとあったことも事実は事実である。 ただ、このことは杏林大にとって非常に大きなことである。運がないままに 優勝を飾れなかったシーズンが数知れずあり、2部で勝つための十分過ぎる 戦力を有しながら1部昇格を勝ち取れない、悲運の「出口なき戦い」が 5年も6年も続いたのである。このシーズン程度の運のよさがあったところで 何も文句はない。

続いて杏林大のよさを議論するならば、大きかったのはエースの川野辺の 活躍であろう。7試合に登板して4勝無敗の防御率1.72。 東京国際大との直接対決では2勝を挙げ、登板した試合はほとんど無難に抑えた。 3年生までは井澤の影に隠れて登板の機会も少なく、投手としての 実力も井澤を越えているとはどうしても思えない。まして大学に入ってから 投手を始めたという。「遅咲き」の投手と言っていいだろう。大学に 入ってから初めて完封勝利を挙げたのが最終登板となった日大生物との 入れ替え戦第1戦ということだ。遅咲き、しかしそれでいて自分の特徴を 生かし、安定感は抜群だった。川野辺から直接聞かされたのだが、 大学に入って卒業するまで練習試合も含めて敗戦投手になっていないと言うのである (その後の調べで平成9年春に駿河台大学に1敗を喫していることがわかった)。 体が大きいわけでもなく、特別速い球も持たない。右下手から多彩な変化球で 低めをつくのが身上、そして井澤のようなエリートでもない川野辺は、 しかしまぎれもなく杏林大の1部昇格の立役者だった。日大生物との 入れ替え戦でも、第2戦でリードして終盤を迎えれば、展開によらず最後を 川野辺で締めるつもりだったと内藤氏は言う。たまたま山本貴の予期せぬ 満塁本塁打でその登板のチャンスは巡ってこなかったが、川野辺はその 位置にいていい、締めくくりを任せるに十分値する存在となっていたのである。 この入れ替え戦後、筆者は川野辺と話す機会があった。普段から彼に対して 直接「いいピッチャーだ」「安定している」とよくほめ、その度に 「自分なんか大したことないです」「井澤さんに比べたらぜんぜん」などと 言っていた川野辺だがこのとき、少し控えめに「(シーズンの)MVPは誰でしょうか?」 と聞いてきた(筆者が2部をまとめているような雰囲気になっていたので 筆者が決めるものと勘違いしたのかもしれない)。即座に隣にいた村上崇 (千歳ケ丘高校出身、当時4年生)が「あんたしかいないでしょう。あんたしか 目立ったのいないんだから」と言った。確かに筆者なら川野辺をMVPに選んだ であろう。

川野辺はごく普通の選手である、と思う。多分ユニホームを着ずにそこらを うろうろしていれば野球をやっているかどうかもよくわからない、普通の 学生に見えるだろう。印象としては少し控えめの、普通の「いい人」である。 その川野辺が1部昇格の立役者、川野辺が1番目立つチーム、このシーズンの 杏林大はそれこそ「普通の」チームだったように思う。2部の他チームに 比べてしっかりしたセンター返しの打撃ができるがホームランバッターが いるわけでもない。盗塁やヒットエンドランを他チームより少しうまく できるかもしれないし、チーム打率3割は大したものだがエラーもよくする (このシーズン30失策は2部で2番目に多い。 10試合で30失策をしたチームが1部に昇格したのはあまり聞かない)。 そんな、普通のチームだと思うのだ。内藤氏は「あのシーズンのチームは 辻(智也、堀越高校出身、当時4年生)と飯塚のチームだ」と言う。 それはそうとしても主将の飯塚にしても副主将の辻にしても選手としての レベルは2部レベルを大きくは越えない選手である(辻は主将として甲子園に 出場している点で「普通」とは少し違うかもしれないが)。器用で比較的 長打力もある村上貴や大越卓雄(作新学院高校出身、当時2年生)は 4割の打率を残し、辻も飯塚も3割の打率は残したが彼らのうちの誰一人 小林・中野・三村らを越えているとは到底思えない。このシーズンの 杏林大は、ごく普通の選手の集まりだったと思う。ただしよく実力を 発揮して全体がうまく機能したとは思う。小林が中野が三村が井澤が、あくなき 挑戦を続けて何度も悲運という壁の前に跳ね返され、果たせなかった1部昇格。 それを果たしたのは、野球エリートでもなんでもない川野辺が1番目立つ、 「普通の」チームだった。先輩たちから受け継がれた無念の思いの積み重ねが それを果たしたのか、内藤氏を始めとする関係者の執念が実ったか、 とにかくも彼らが果たした、エリートたちでも果たせなかった "夢" は 非常に大きな意味があり、そして彼ら杏林大の悲運の歴史を振り返るとき その意味の大きさを実感できるような気がする。そして平成9年秋の シーズンは、杏林大の野球部にとって歴史に残るシーズンとなり、 多分に「ドラマ性を含む」シーズンだったのである。


筆者が平成5年に東京農工大に入学したとき、我々と杏林大とはともに2部で 戦っていたが杏林大は常に優勝を狙えるチームで我々は最下位を心配しなければ ならないチーム。筆者にとって杏林大は入学以来、目標のチームとなった。 特に自分がチームの中で上に立つようになった平成7年からはその気持ちが 強くなり、杏林大との対戦は非常に楽しみで執念を燃やしたように思う。 平成7年には杏林大との対戦での連敗を13で止め、平成8年春・平成9年春には 2勝を挙げるなど、入学当初から比べれば我々と杏林大との差は縮まったかと 思ったものである。しかし平成9年秋に杏林大が1部に昇格。自分が大学を 離れるときには杏林大との差が再び開いてしまった気がして、特別な意識を 持っていた杏林大の1部昇格はうれしくもあるが悔しくもあり複雑な気持ちでいる。 内藤氏が就任1〜2年のうちに1部昇格を描いていたことは先に書いたがさらに、 今ごろは1度大学野球選手権に出場しているはずだったとも言う。 その筋書は修正せねばならないが、2年後くらいに大学野球選手権に出場したいと 思っていると言う。創価大学・流通経済大学がしのぎを削る現在のこの 連盟でそれは必ずしも簡単ではないだろう。しかしもしかすると、度重なる 挑戦の末、幾度とない悲運を乗り越えた末に果たせるのかもしれない。 杏林大の将来を、しばらく "複雑な気持ちで" 見守っていきたい。


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