4年の歳月が誰の何を変えたのか?
国際大・本田茂雄と工学院大学との間の微妙な4年間

(東京新大学野球連盟2部に所属する東京農工大学4年の山口陽三が、 東京新大学野球連盟の1ファンとして独自の観点で勝手に語ります)

 平成8年6月15日、場所は東京都八王子市の創価大学で東京新大学リーグの入れ替え戦 (1部6位VS2部1位 & 2部6位VS3部1位)が始まった。 ここで取り上げるのは、1部6位の工学院大学と2部1位の東京国際大学の対戦であるわけだが、 この両チームの間には微妙な因縁が渦巻いていた。 その微妙かつ根の深い因縁が両チームの対戦を巧妙に演出する。 時は4年前、平成4年の夏にさかのぼる。

 平成4年夏、第74回全国高校野球選手権西東京大会で工学院大学附属高校はベスト4に進出した。

高田2−2 1.000 金沢20−6  .300
大石1−1 1.000 佐藤10−3  .300
神崎22−12  .545 土屋16−4  .250
出野6−3  .500 望月17−4  .235
片山9−4  .444 板橋24−5  .208
山田21−9  .429 細江5−1  .200
本田27−11  .407 池田1−0  .000
青木11−4  .364
河角6−2  .333
(打率のいい順に並べてある)

 左腕本田、右腕板橋の2本柱は非常に安定しており、打線は切れ目がなく、 実に4割を越えるチーム打率を誇っていたようである。最終的には、 この年甲子園に行くことになる創価高校にコールド負けを喫してしまうものの、 片倉高校・日大三高といったシード高を撃破してベスト4進出を果たしたその実力は 本物と見ていいだろう。このときにエースで4番を務めていたのが本田茂雄である。

 問題はそのあとである。ベスト4進出の立役者となったエース・本田茂雄は、 いくつかの大学のセレクションを受け(筆者も詳しくはわからないが、 城西大・中央大といった名前を聞いたことがある。大学野球のトップレベルから 1ランクくらい下がったあたりの大学のセレクションを受けたのだろう)、 悪くない評価をしてくれた大学もあったようだが、最終的には 「あまりにハードな練習はちょっと・・・」という気持ちがあったのか、 東京国際大学への進学を決めることになる(「しばられたくない」 の気持ちがあったのだろうか。惜しい話だが)。東京国際大学は昭和60年に東京新大学リーグに加盟し、 平成2年に1部に昇格した大学である。リーグ自体有名ではないが、 流通経済大学・創価大学といった、全国でも通用する力を持つ大学も所属している。

 一方、板橋・高田・土屋・望月・細江・大石・出野(出野は1学年下)らは揃って工学院大学の野球部に入部した。 工学院大学も東京新大学リーグに所属しており、当連盟発足当時からいる伝統校である。 40年を越える歴史の中では、1部優勝8回、大学野球選手権出場も3回ある大学ではあるが、 ここ数年(少なくとも彼らが工学院大学に入学する数年前あたり)は2部のまんなかあたりに 位置していた大学である。

 ところが彼らの入学は工学院大学に大きな転機をもたらした。 入学直後の平成5年春から、高校時代本田と2本柱だった板橋がエース格として活躍。 秋には、高校時代本田の控え投手だった高田が板橋とともに2本柱として活躍。 なんと平成5年春から平成6年秋まで4季連続2部優勝。しかしその間、 入れ替え戦ではなかなか勝てず、2部から抜け出せずにいた。

 平成7年6月、9勝1敗で5季連続の2部優勝を勝ち取った工学院大学と、 1勝10敗、勝点0で1部最下位となった東京国際大学が 入れ替え戦で激突した。 1年時から活躍し、このシーズンからは塩見成行(高島高校出身、このとき3年) とともにマウンドを守ることになった本田にとっては、イヤな形での、 避けたい形での "キュウユウ"(「旧友」?「球友」?)との対戦となった。 第1戦を塩見の粘投で3−1とものにした国際大は、リーグ戦同様、 第2戦の先発に本田を起用した。一方、高田の好投むなしく第1戦を落とした工学院は、 第2戦に板橋をもってきた。

 この試合、本田も板橋もいい投球を展開していた。たまにヒットが出ても連打を許さない。 6回に本田が押し出し四球で1点、7回に板橋も押し出し四球で1点を与えるが、 他は危なげなかった。ところが8回2死1塁のところで、国際大・谷口学監督(東京国際大学卒業、 かつては違う大学名だったかも)はなんと本田をいきなり代えた。 意味不明のこの采配が国際大の2部転落への扉を開く。 8回は無失点に抑えたが、9回1死満塁から板橋のサヨナラヒットで工学院が勝った。 8回の継投について、バックネット裏で見ていた国際大の部員までもが監督批判をしていた。

 迎えた第3戦、高田と塩見が再び投げあう。国際大が2回までに3点を先制し、 高田を2回で降ろすも、塩見がこの日は工学院に通用しない。3−2で迎えた4回、 土屋の3ラン等で逆転を許す。そして工学院は3回から、連投となる板橋を投入。 これが前日を上回る快投を演じ、7イニングを1安打1失点に抑え、 7−4で工学院が勝った。7番レフトでスタメン出場した本田は高田・板橋の前に計4三振。 工学院に敗れて最も落ち込んだ男と伝え聞いている。

 それから1年がたった平成8年春のシーズン、東京国際大学は駿河台大学・ 杏林大学と激しい優勝争いを演じた末、7勝3敗でかろうじて2部優勝を拾った。 しかしこのシーズン、本田の登板は1イニングだけ。右のエースの塩見と、 このシーズンに頭角を表した2年生の左投手・川内真之(城南高校出身) のがんばりがあったわけだが、国際大は「まぎれもなくチームで1番いい投手」 を使うことなく優勝したわけである。そのことが逆に混戦を招きもしたが。 この起用に対する解釈としては、

などが考えられている。ABは常識では考えにくいことだが、 谷口監督の選手起用は2部の中でも疑問視されている部分があり、 まんざらうそでもなさそうな雰囲気はあった。

 そして様々な紆余曲折の末、平成8年6月、東京国際大学と工学院大学が 入れ替え戦という形で再び対戦することとなる。いくつかの因縁を含むこの対戦、 本田を始め、平成4年の "ベスト4メンバー" は4年生になっていた。 言わばラストシーズンである。本田を含む国際大の1年ぶりのリターンマッチ、 いやがおうにも盛り上がってきた。


平成8年6月15日 創価大学グランド 1・2部入れ替え戦第1戦
1 2 3 4 5 6 7 8 9
東京国際大(2部1位) 0 0 0 0 0 0 4 1 1 6
工学院大(1部6位) 0 0 2 0 0 1 2 3 × 8
 ベストメンバーを組んだ国際大に対して、筆者が少し驚いたのは工学院のスタメンである。 1年前に1部昇格を勝ちとった時のレギュラーである土屋・大石・細江・岡部といったあたりがはずれている。 登録はされているので引退したわけではなさそうだ。そうするとレギュラーを取られたのだろうか。 さすがに毎年附属高校からいい選手が入部してきているだけあって、層が厚い。

 さて、先発は塩見と板橋で始まった。両投手とも立ち上がりは制球が定まらず、 2死満塁のピンチを迎えたがかろうじて無失点。そして先制したのは工学院だった。 3回1死満塁から板橋の右越え3塁打で1点。続く志摩守博(工学院大学附属高校出身、2年)の適時打で2点を先制した。 6回には1死1塁から伊藤正志(工学院大学附属高校出身、3年)の右中間2塁打で1点追加。 塩見は危なげない投球をしてはいるものの、工学院がソツなく点を取る。 打ったヒットはほとんど得点に結びつけるソツのなさだ。

 対する板橋はそれ以上に危なげない。6回まで散発3安打。 ネット裏で試合観戦している審判のオジさんたちが話している。 「板橋は球威が落ちたねぇ」。筆者にはそうは見えない。1年前とあまり変わらない。 でもやはり1部の野球を見ている人間から見るとそうなのだろう。 そしてこう言うオジさんもいた。「国際打線はダメだね。外の変化球を引っ張りにいって振り回しちゃってる。 あれじゃ打てないね」。確かにリーグ戦10戦で99点を叩き出した強力打線、 この日はいいところがない。7回も2死2塁のチャンスはつかむも打順は2番・ 五十嵐康之(新潟明訓高校出身、3年)へ。このバッターはリーグ戦から四球ばかり狙ってるバッターで、 到底板橋を打てる雰囲気はなかった。代打を出してもよさそうな場面だが、 国際大ベンチは動かなかった。

 ところがこの五十嵐がカウント2−3からメチャ際どい外角スライダーを平然と見送る (手が出なかったのだろう、多分)。「ストライク」と言われておかしくないこの投球、 判定はボールとなり、3番・住吉信篤(前橋商業高校出身、4年、主将)にまわる。 住吉は2−1まで追い込まれるも、結局バットを振ることなく四球で満塁。 4番の井沢元博(六日町高校出身、3年、同年秋から主将)を迎える。 大型ながら粗いバッティングを繰り返すこのバッター、2部では3割、11打点を残したが、 板橋には3打席抑えられていた。そしてこの打席、例によってストライクは積極的に打っていく。 カウント2−2からのフォークもカット。井沢のわりにはよくついていってる。 そして次のフォークにも食らいつき、打球はセンター前へ抜けた。 2点かえして2死2.3塁。さらに5番・管野英雄(伊奈学園総合高校出身、4年) はスライダーを右に打ち返し、これがライト前ヒットとなり、逆転。 先ほどのオジさん、「ほら、ああやって右に打てば打てるんだよ」と得意げ。 とにかくも "100点打線" が板橋から1イニングで3点を逆転した。

 しかし1点リードもつかの間、7回にすぐ塩見がつかまる。田波(工学院大学附属高校出身、1年)・高田の連打の後、 板橋の右中間2塁打で再逆転。板橋はレフトへの長打だけでなく、 逆らわずに右への長打も打てるようになっている。そして塩見KO。 1年ぶりの雪辱はならなかった。このあと、 "塩見以下" の投手が出てきて結果的に国際大は 惜敗を喫することになるわけだが、ここでのKOは仕方なかった。 それでも塩見は自分に腹を立てたのか、グローブを投げつけて怒りをあらわにする。 気づいたときにはベンチ前で谷口監督と塩見が取っ組み合いになり、 塩見がベンチ裏に引きずり込まれた。一瞬、ゾ〜〜ッとしたが、 あとでわかったことによると監督が塩見を「あつくなるな、おちつけ」 となだめていたらしい。

 5−4で迎えた8回表、驚いたのは工学院のマウンドだ。板橋はショートにまわり、 1年生投手・佐藤嘉紀が登板。この投手に関するデータはないが、 もちろん工学院大学附属高校出身。リーグ戦では板橋・高田がボロボロだったらしいから、 敗戦処理から頭角を現した投手かもしれない。しかし現実は甘くなく、 先頭打者の先輩・本田に3塁打。板橋の前では力が入ってボール気味の球も打ちにいっていた本田、 ここはきれいなヒットだった。続く飛田博司(土浦日大高校出身、4年) のショートゴロエラーで同点。そして国際大ベンチも動く。 キャッチャーである飛田に代走鬼沢智弘(勝田高校出身、2年)。 勝負をかけたが9番石川博久(新潟明訓高校出身、1年) がバントファールで追い込まれたあげく、最悪のショートゴロゲッツー。 チャンスはついえた。

 さらに国際大ベンチは動く。8回裏の頭からマウンドに鈴木徳光(京華商業高校出身、2年)を送った。 これははっきり言って苦しい継投だ。筆者は結果論でものを言ってるのではなく、 最初からそう思っていた。鈴木という投手はそこそこの速球は持っているが コントロールに難がある投手だ。塩見を継投した宮内俊一(磐城高校出身、4年) を続投させるのも危険だが、鈴木も同じくらい危険だ。 明日の先発には本田が決まっているものと思っていたので(少なくとも筆者はそう思っていた) この試合、この展開ではせめて川内を投げさせるべきだった。 結局鈴木は2死3塁から板橋を歩かせてしまい、志摩・塩見誠(工学院大学付属高校出身、1年。こちらにも塩見という選手がいる)の連続適時打で計3失点。 板橋と勝負しなかった(鈴木本人はしたつもりで、その結果の四球だろう) のは悪くないとしても後続を抑え切れないあたりが鈴木の力不足か・・・。

 9回表の国際大の攻撃は1点返して2死1塁で本田を迎えた。 2点差あって2死。工学院の勝利は堅いかと思ったこの場面で本田が執念を見せる。 右中間を深々と破る2塁打で2.3塁。同点の走者が2塁まで来た。 本田の、1年生投手からの2本の長打、7回に井沢が板橋のフォークに食らいついた 2点適時打、変化球を右に打ち返した管野の2点適時打、 2部転落時からのレギュラーたちが打倒工学院の執念を見せる。 ここのチャンスでも佐藤は次打者にカウント0−2。 2部レベルとそう変わらないこの佐藤では非常に危険なこの場面。 しかし打席にいたのは勝負弱い鬼沢だった。1発長打のある飛田の打順だが、 7回に代走が出されてしまっていた。鬼沢は0−2からのまんなか直球に手が出せず、 バックネット裏の観客から一斉にため息。結局セカンドゴロで試合終了。 雪辱に燃えた塩見の投球、板橋から逆転した "100点打線" の意地、 国際大もいくつかいい場面は見られたがいま1歩及ばなかった。 明日は本田の、すべての思いをぶつける投球が見たい。


平成8年6月16日 創価大学グランド 1・2部入れ替え戦第2戦
1 2 3 4 5 6 7 8 9
工学院大(1部6位) 0 0 0 6 1 0 0 0 2 9
東京国際大(2部1位) 0 0 0 1 0 0 0 0 2 3

 予想通り高田を先発させてきた工学院に対し、国際大の先発マウンドは2年生左腕の川内だった。 ガケっぷちまで追い込まれてなお本田を投げさせない谷口監督、 果たしてどのような事情があると言うのだろうか。

 しかし川内は悪くない立ち上がりを見せた。例によって四球は出すものの、 力で押す投球で工学院打線ですら力負けしているような場面もあった。 しかし4回に一気に崩れる。1死1塁から伊藤の左中間2塁打で先制を許すと、 満塁になったあとに逸球で2点目。さらにたたみかけるように1番・横溝陽介 (工学院大学附属高校出身、2年)の適時打で3点目。 次打者・田波の初球に暴投で4点目。 キャッチャーの飛田は急造キャッチャーではないが、特にうまいとは言えないうえに リーグ戦では全試合指名打者だったので、川内とバッテリーを組むのも 初めてみたいなものだったのだろう。リーグ戦でベストメンバーを組まずに 戦ったツケがこんなところで出てしまった。あっという間の4失点。 あわててブルペンへ向かった塩見が10球ほどの投球練習で板橋の打順から登板するも、 2死から志摩の2点適時打で計6失点。4回にして勝負の大勢は決まった。

 工学院は9回には高田−伊藤のバッテリーをひっこめて岡川貴光−串田純司の1年生バッテリー (いずれも工学院大学附属高校出身)を試す余裕の展開。 国際大にとっては、工学院が自分たちの上のレベルにいることを確認する入れ替え戦となってしまった。 接戦をしても逃げ切られ、自分のチームの投手のランクが下がれば一方的に負ける。 今後1〜2年の間に、2部のチームで工学院に勝つ可能性があるのは国際大だけだろうが、 それでも相当難しいだろう。


 さて、この試合の本田だが、やはり力が入りすぎた感じで、ボール気味の球も振り回していた。 4年前に自分の控え投手であった高田から1本のヒットは打ったものの、 いいバッティングは見られなかった。9回の最終打席も、 岡川のワンバウンド投球を空振り三振。結局振り逃げで出塁はしたが、 いいようにやられて悔しい思いは強いだろう。本田茂雄。 「茂雄」と名づけた親(?)はやはり野球が好きだったのか、 とにかく彼は筆者のようなレベルでは話にならないほどの野球センスの持ち主に見える。 打者としてもそうだし、筆者は3試合しか見ていないが(うち1試合は1イニングだけ)、 投手としても2部レベルを超えている感じだった。 しかし惜しまれるのは大学野球の環境ではないだろうか? 誠に申し訳ないが、平成8年6月現在、本田は依然として板橋・高田を越えるレベルにいる、 とは思えない。国際大は1部に所属していたことで、 レベルの高い大学と試合をすることはできたものの、 本田は国際大の中では適切なライバル、もしくは適切な指導者に巡り会えなかったのではなかろうか? 実際、国際大は1部でそれほど活躍していなかった。それに対し、 工学院は2部とはいえ5季連続優勝。それを果たすにはそれ相応の苦労があったことだろう。 工学院の強さの一因として、大学入学後も成長を続けていることがあると思う。 典型的な例は高田だ。平成7年春のシーズン中、工学院の伊丹監督が筆者との雑談の中で こう言ったことがある。「今は板橋が4番、高田が5番だが、俺はセンスでは高田が4番だと思ってる」。 この見解には筆者は賛成ではなかった。そのときはセンスも実力も板橋がやや上に見えた。 しかし板橋は投手としても打者としてもその頃2部のトップレベルで、 やや天狗気味とも見られていた。それに対して、高田は1・2年のときにはそれほどいい投手に見えなかったが、 3年のときにはやはり誰もが認めるいい投手だった。 平成7年秋には創価大学を1点に抑える好投をしている。 伊丹監督の高田に対する評価は、そういうことを含んだものだったのかもしれない。

二十歳そこそこの筆者が偉そうなことを言えた立場ではないが、 4年という時間、特に学生時代の4年という時間はかなり大きな時間なのだろう。 筆者は恥ずかしながら野球技術に関して大学生活の中で飛躍的に伸びることは なかったものの、中には大きく伸びる者もいる。逆に言えば「1年生のときの方が いい選手だった」と言われる選手もわりとよく見受ける(本田がそうとは言っていない。 筆者は本田の高校時代も大学1・2年時代のプレーも見ていない)。 この入れ替え戦を最後に現役を引退した本田がどういう気持ちでいたのかは、 筆者には想像もつかないし、そもそも本田とは持って生まれた野球の才能、 育ってきた野球環境、その中で残した実績が違いすぎる筆者が想像できるはずも ないのだろうが、なんとも複雑な気持ちになる話である。

本田には野球を続けてほしいと思っている。やっぱり筆者が見た2部周辺の投手の中では かなり高いレベルにいた投手だと思う。キレのいいスライダー、揺れながら 落ちていく「ひらひらボール」(杏林ナインがそう命名してた)、 その鮮やかな投球には楽しませてもらった。野球を続けてほしい、が、 どうだろう。野球を嫌いになってはいないだろうか?


本エッセイは筆者が東京農工大学硬式野球部の部誌に書き綴ったものを 編集しなおしたものだが、元の部誌が見つかっていない。そちらでは、 平成4年に本田が朝日新聞東京版に紹介された記事と筆者がお粗末ながら やはり平成4年の夏に朝日新聞神奈川版に紹介された記事とを対比させ、 「こんなにもすばらしい選手と同じ時期に似たように新聞で紹介されて自分は 幸せである」みたいな結びになっていたように思う。


平成10年の段階でわかっている後日談を書いておく。まず工学院大学の 板橋は平成8年秋のプロ野球のドラフトに内野手としてひっかかるかも、 と噂になったと聞いている。結局指名されなかったがどこかで社会人野球を やっているものと思う。高田は、NTT信越とかいうところで社会人野球をやっているようなことを、 やはり噂で聞いた。本田は、特にそのような話は聞かない。今春無事東京国際大学を 卒業し、働いているという話は噂で聞いたが。ちなみに平成8年春の入れ替え戦で 登板しなかったのは、やはりどこか故障はあったらしい、ということも聞いた。
また、1〜2年のうちに工学院大学に勝てるチームは、2部では国際大だけだろうという予測も、 当たりはしなかった。板橋・高田の卒業とともに工学院大学は1部から 2部に転落。平成9年秋には杏林大学・国際大学・東京理科大学に敗れ、 さらに平成10年春には東京農工大学・駿河台大学にも黒星を喫している。


筆者のメールアドレスは yozo@msf.biglobe.ne.jp

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