(山口陽三筆)
2008年7月。日本野球連盟に所属する名門チームの一つ、三菱ふそう川崎(前三菱自動車川崎)が今年限りでの 休部を発表した。この時点で残されていた大会は、神奈川第1代表として出場を決めていた 都市対抗野球本大会に、11月の日本選手権。小さな公式戦では千葉市長杯のかかる 関東リーグ戦があった。年始には部員に休部が伝えられていたというので、7月の発表で チームに動揺があったのかはわからないが、都市対抗本大会は初戦敗退。 日本選手権は神奈川県予選を1位通過したが関東予選で敗退し本大会出場ならず。 10月に残っていた関東リーグ戦を戦い終えて公式戦を終了した。
「相模原クラブ」に所属する筆者は何度か三菱ふそう川崎と対戦した。 創部51年を誇る三菱ふそう川崎と、創部13年の相模原クラブが対戦し始めたのは2000年。 8度の対戦はほぼいいところなく8敗した。相手側から相模原クラブを見たときに なんら思い出も感傷もないだろうが、こちらから、特に相模原クラブというよりも 山口陽三という個人から三菱ふそう川崎を見たときに、それは感慨深い存在であり、 そして休部したことを残念に思うとともに、率直な気持ちとして「感謝」の思いが強い。
ID | 試合日 | 大会名・試合名 | 結果 |
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#1 | 2000年6月19日 | 都市対抗野球神奈川県予選 敗者復活1回戦 | ●相模原クラブ 0-15 三菱自動車川崎○ (5回コールド) |
#2 | 2001年8月28日 | 日本選手権神奈川県予選 5位決定1回戦 | ●相模原クラブ 0-16 三菱ふそう川崎○ (5回コールド) |
#3 | 2005年3月25日 | 春季神奈川県大会 2回戦 | ●相模原クラブ 0-10× 三菱ふそう川崎○ (6回コールド) |
#4 | 2005年9月23日 | 日本選手権神奈川県予選 2回戦 | ●相模原クラブ 1-8× 三菱ふそう川崎○ (8回コールド) |
#5 | 2006年6月8日 | 都市対抗野球神奈川県2次予選 敗者復活1回戦 | ●相模原クラブ 0-10× 三菱ふそう川崎○ (5回コールド) |
#6 | 2008年3月28日 | 春季神奈川県大会 1回戦 | ●相模原クラブ 1-8× 三菱ふそう川崎○ (7回コールド) |
#7 | 2008年6月2日 | 都市対抗野球神奈川県2次予選 1回戦 | ●相模原クラブ 0-7× 三菱ふそう川崎○ (8回コールド) |
#8 | 2008年9月23日 | 日本選手権神奈川県2次予選 1回戦 | ●相模原クラブ 0-7× 三菱ふそう川崎○ (7回コールド) |
8試合戦ってすべてコールドの0勝8敗。総得点2点、総失点81点と、一方的にやられたのはよくわかる。 筆者からすればそれぞれ印象深い試合である。
#2は相模原クラブの長い一日の一戦。 実は前の日に初回2点先制した試合が雨天ノーゲームとなってやりなおしだったのだが 一方的にやられた。この2点も幻に。8試合戦って2点しか取れなかったわけだから 1イニングで2点取った事実は大きい。#3は三菱ふそう川崎が会社の不祥事によって 野球部が休部していた1年が明けて最初の公式戦。いまいちつながりに欠く相手打線の おかげで中盤まで失点を抑えられていたが、一気に寄り切られた。 #4は、休部明けの年にいきなり都市対抗野球で優勝した三菱ふそう川崎が神奈川に 戻ってきての最初の大会。精彩を欠く相手先発投手が初回いきなり無死満塁の好機をくれ、 1点を先制したものの続く好機で遊撃後方にフラフラ上がった打球を相手遊撃・渡辺直人が 超ファインプレーで後ろ向き捕球。好機の芽を摘まれた。この守備のみならず、この試合では 渡辺の好守が目を引いて感動すらさせられたが、この年の秋のドラフト会議で楽天に指名された。
#6・7・8の試合は今年のもの。#6ではうちのエースががんばって4回までは1−0と リードを保った。#7では調整の意味もあってか相手がエース格をどんどん継投させ、 我々は一人も走者を出せなかった。継投による8回完全試合を食らった。 #8でも相手先発投手の矢貫俊之から7回2死まで一人も走者を出せず。ようやくヒットが 1本出て完全試合を免れた。矢貫はこの年の秋のドラフト会議で日本ハムに指名された。
その中でも印象深いのは最初の対戦となった#1であり、個人的に衝撃的であった。 筆者自身が1999年途中からの入部で、実質、社会人野球に携わったのはこの年(2000年)が 初めてであった。実はこの敗戦を受けて、その試合前までにどんなことを考えていて どんなことを感じたかを、別の文章で書いている。今となっては恥ずかしいのでリンクも 張らないが、結びに書いた「一つの尺度を与えてくれた」というのがとても大きい。 要するに、社会人野球の世界において企業チームとクラブチームとの差はとても大きく、 その差を埋めてクラブチームが企業チームに勝つために、やり方・工夫・分析・戦術などで 立ち向かうことには非常に困難があるということを身をもって教えてくれた。 可能性がないとは言わないし、さじを投げたという意味ではないが、レベルそのものに 歴然たる差があることを感じさせてくれた。その後数年して、クラブチームが企業チームに 勝つケースが少し出てきたが、基本的には企業チーム並みの資金力・環境整備・スカウティング等が できているチームの成果と思われ、2000年時点で筆者が感じたことに、大きな変化はない。 なんというか、現存する両者のギャップを埋めるために、やり方・工夫・分析・戦術などを 駆使することよりも根本の部分のギャップを少なくすることの方が近道なのではないかという ことに気づかされた。残念ではあり悔しいことではあるが、それを入部初期に教えてくれた ことについては、その後の自分の社会人野球人生を考えたときに、むしろよかったかもしれない。 もちろん相手がそんなことを考えて目の前の試合を戦っているわけではないだろうが、 三菱ふそう川崎というチームに対して感謝の意が強い。
全国の社会人野球チームを数多く知っているわけでもないが、三菱ふそう川崎というチームは 非常に特徴的なチームでもある。金属バットを使っていた時代、 ある意味で時流に合っているというか、三菱ふそう川崎は「世界に通じる攻撃野球」を掲げて 徹底的に打ち勝つ野球を展開していた。筆者は2000年以降のことしか知らないが、 どうやら伝統的にそうだったみたいで、おかげで三菱ふそう川崎の試合は長いという ことがインターネットで紹介されたりもしていた(参考ページ。 その豪打が「余計なこと」と表現されている)。 その象徴的な存在なのが、垣野多鶴監督。キューバの野球に心酔していたらしく、 超攻撃野球を掲げていた。選手の打撃フォームまでキューバ流に画一。 外角に大きく踏み込んでボールを乗せてしゃくりあげる打法。そもそも日本のプロ野球では 「打ち勝って優勝する」という方向性は非常にまれであり(1985年の阪神の例はあるが)、 あまり推奨されていない。三菱ふそう川崎の野球はおそらく、受け入れられない向きも 相当あったのだと思う。しかし金属バットを使う社会人野球には合っていたのかもしれない。 筆者が衝撃を受けた2000年の都市対抗野球。そのまま自慢の打力を遺憾なく発揮し、 本大会準決勝戦でも20点を取るなど大暴れし、日本一にまでなってしまった。
三菱ふそう川崎というチームに触れ、西郷泰之という選手を知ることができたのも自分にとって財産である。
先に紹介した打法とはまったく違う打ち方をするが、チームカラーを象徴するような
非常にハイレベルの、左のスラッガーである。ボールをとらえる技術、スイングスピード、
打球を遠くに飛ばす力、どれをとっても申し分ない上に、甘い球を逃さない独特の嗅覚、
好機に強い勝負強さ、打席での風格など、目に見えない部分も非常に秀でた、他に類のない打者である。
筆者は2000年以来、西郷を社会人野球では日本一の打者と思っている。
プロでどこまでできたのかをぜひ見たかった。
自チームの日本一に何度も貢献しているのみならず、補強選手として数々のチームに 優勝をもたらしている。「ミスター社会人」とも呼ばれる。 |
まず筆者ごときがこんなことを言える立場でもないことや、言われる方も言われたくない であろうことを断っておく。筆者個人は2008年現在、垣野監督を非常に高く評価している (評価されたくもないだろうが)。 名将とまで言っていいかと思い、せめてもの賛辞として「横浜ベイスターズの監督をやってみてもらえませんか」 とも思っていることを先に記しておく。 ただしこの時期(2000年ごろ)まで、垣野監督の野球には賛同していない。 評価もあまりしていない。自チームが大敗したことはそれはそれとしても、 こんな野球があっていいのか、野球とは少し趣が異なるスポーツなのではないかと、 そんなふうに思っていた。2002年、社会人野球で使うバットが金属バットから木製バットに変わった。 三菱ふそう川崎の掲げる野球など通じるわけがないと思っていたが、マスコミを通じて 知った垣野監督のコメントは「野球の本質が変わるわけではない。木製バットでも うちらしく打ち勝つ野球をやりたい」といったものだった。ふたを開けてみれば 金属バット用の「ふそう打ち」は不発。2002年、都市対抗野球神奈川県予選で敗退した。
しかしその翌年の2003年に三菱ふそう川崎は都市対抗野球で優勝を飾る。 2004年に休部して2005年にもう1度優勝するわけだから、事実上の連覇みたいなものだ。 ここでも「こんな野球が通じるわけがない」という筆者の見方が見当違いだったのかと 思われるかもしれないが、ここは違う。三菱ふそう川崎が、野球のスタイルを変えた。 しゃくりあげる打撃を繰り返していた選手の多くは出番が減るかチームを去り、 打撃よりも守備で貢献できるタイプの渡辺らを新人で獲得。移籍などでもソツなくプレーできる タイプの選手が入ってきて、レギュラーに名前を連ねた。投手力を中心にした野球で、見事な成果を果たした (クローズアップされなかったが、投手力も悪くはなかった。そして、直接知っているわけではないが、 垣野監督自身も打者に対してだけでなく投手に対してもかなり細かく指摘などをしている ように見受けられる)。
この事実がすばらしい。おそらくは反対向きの意見もあったであろう「打ち勝つ野球」でも、 金属バット時代に優勝の結果を残す。その後木製バットに変わったことでも、その時点で 「野球を変えない」として成果が出なかった。そうは言っても1年程度で、それまで 何年もかけて培ってきた価値観を簡単に変えられないものだろうと思うのだが (野球に限らず一般論として)、完全にと言わないまでも変えてしまった。 これができるのはすばらしいが、おそらくは社会人野球を取り巻く環境のせいでそうせざるを得なかったのだろう。 端的には企業チームとして会社の協力を得るために「勝つこと」が絶対的に必要であり、 一個人の価値観などにしがみついていられなかったのだろう。価値観の転向も重大決心 ならばそれで結果を出すことはなお難しいだろうと思うのだが、1年で結果も出した。 名将である。そして、社会人野球とはそれだけ厳しいもの、そこまでしても勝たなければならないもの なのだということを間接的にではあるが示してくれた、教えてくれたというふうにもとらえられる。 この点は筆者側から三菱ふそう川崎への二番目の感謝になる。
そんな三菱ふそう川崎は、2008年10月30日、県営大宮球場での関東リーグ戦最終戦を戦って 公式戦を終え、51年の活動に幕を閉じた。その様子を報じた、10月31日の神奈川新聞の記事を紹介する。
目頭を押さえる垣野監督が印象的である。そして対戦チームであるJR東日本の部員からも 胴上げされていることがわかる。「ふそうのプライド」。同時期の別の記事では垣野監督のコメントとして 「(移籍する選手には)移籍先でもふそうの打撃を伝えていってもらいたい」といった主旨のものがあった。 必ずしも打撃のチームというだけではなくなった今の三菱ふそう川崎、それでも マインドとしてはその心意気を捨てていないという、垣野監督なりのプライドともとれる。 惜しい名将、惜しい名門を失った。
「ふそうのプライド」。筆者なりに解釈すれば、教えてくれた「勝利への執念」「強さへの徹底的な追及」。
2000.6.19 都市対抗野球神奈川2次予選 対相模原クラブ戦でのメンバー
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2008.6.2 都市対抗野球神奈川2次予選 対相模原クラブ戦でのメンバー
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