4年生引退記念特集
〜〜連盟を彩った男たち〜〜

(東京新大学野球連盟2部に所属する東京農工大学を卒業した山口陽三が 東京新大学野球連盟の1ファンとして独自の観点で勝手に語ります)

平成12年秋のシーズンで、この年の4年生は大学野球生活を終えた。 平成12年のみならず毎年起こることである。筆者がなぜ今年に限ってこういった 特集を組む気になったのはよくわからないが、今年の4年生が入学したのが 平成9年。この年は筆者が東京農工大学を卒業して同大学院に入学した年であり、 大学野球への関わり方としては選手からコーチへと立場が変わった年だった。 言わば筆者の第2の大学野球生活が始まったのが平成9年であり、 その年に "第1の" 大学野球生活を始めた彼らの学年に対してそれなりの 思い入れがあるのは事実である。

連盟で、この学年を代表する選手は誰だろうか。創価大の持田裕樹(松商学園高校出身)や 永田正明(掛川西高校出身)はプロのスカウトも注目したと聞き、連盟外でも名前が 通る選手であろう。しかしここで取り上げるのは彼らではない。筆者が直接的に接し、 あるいは興味を持ったあたり。2部トップレベルから1部の底辺レベルあたりで がんばった選手にあえてスポットを当てて、連盟トップレベルではない位置で 功績を残したことを紹介する、そんな形にしたい。



投げ続けたエース
--小池大治--

所属校 高千穂商科大
出身校 東京都立国分寺高校
ポジション 投手
投打 右投右打
成績(すべて1部)
1年春
1年秋 8試合2勝1敗、30 2/3回、防御率4.11
2年春 7試合3勝4敗、57回、防御率3.47
2年秋 9試合3勝3敗、64回、防御率2.25
3年春 9試合5勝4敗、74 2/3回、防御率2.43
3年秋 8試合2勝5敗、56回、防御率4.02
4年春 6試合4勝1敗、36 1/3回、防御率4.71
4年秋 10試合6勝1敗、61回、防御率4.13
57試合25勝19敗、379 2/3回、防御率3.41
思い出ワンプレー 平成11年秋、2部との入れ替え戦第3戦
2-1の9回無死2塁から後続をピシャリと抑え
1部残留を勝ち取った投球

パンフレットに掲載されたサイズは173cm、75kg。出身高校は東京都立の国分寺高校。 特に体に恵まれたわけでもなく野球強豪校出身でもない小池だが、この連盟での 4年間において非常に印象に残る選手となった。

驚くべきはその登板数であろう。1年春の成績が手元にない、おそらく登板はないものと 思われるが実働7シーズンで57試合に登板。25勝19敗という数字を見ても、 「勝っても負けても小池」という雰囲気がうかがえる。ちなみに勝率の比較はともかく、 25勝という数字は東京学芸大で投手と野手を兼ね、プロ野球界にも進んだ栗山英樹選手と 同じ勝利数である(栗山選手は25勝8敗)。2年春からエース格となった小池は 1学年上の岸智浩投手と左右の2枚看板として高千穂商科大の投手陣を支え、 3年春には創価大を苦しめ、流通経済大から勝ち点を挙げる快挙にも貢献している。

その小池にとって大きな試練となったのは3年秋であろう。春までで岸が引退。 加えて小池自身の調子が上がらないと聞く。一部ではそれまでのシーズンにおける 投げ過ぎを指摘する声もあがった。第1戦に小池を先発させて落とし、第2戦は リリーフに小池を使ってもチームは勝てない。そんな苦戦を繰り返した末になんと、 開幕8連敗を喫した。最終カードで勝ち点は取ったものの最下位。しかも2部1位校・ 工学院大との入れ替え戦で高千穂商科大は、第1戦に小池を立てて負けた。 第2戦をコールド勝利でものにしたあと、第3戦の先発マウンドに小池はいなかった。 第2戦に勝った古屋亮投手が先発し、1点を先制された6回表途中に小池が登板。 筆者が "思い出ワンプレー" に挙げたのはこの試合である。7回に味方が逆転したあと、 小池は丁寧かつ気迫のある投球で工学院大の追撃をかわし、シーズンの最後にして チームの危機を救った。

1年後、小池自身の最後のシーズンに高千穂商科大は勝ち点4を挙げて43季ぶりの 2位を確保した。このシーズンのチームの躍進は小池抜きでは語れないであろう。 ただ、このシーズンの小池を1度も見られなかったのは筆者としては申し訳なく思っている。 日本学生野球協会に連盟から推薦する表彰選手を決める会議で、創価大の持田や永田に 交じって小池の名前も挙がったという。まさに「高千穂に小池あり」と言えるだろう。


投げられなかったエース
--張田和也--

所属校 杏林大
出身校 栃木県私立作新学院高校
ポジション 投手
投打 右投右打
成績
1年春(2部)
1年秋(2部) 1試合0勝0敗、1回、防御率9.00
2年春(1部) 1試合0勝0敗、6回、防御率3.00
2年秋(1部) 7試合4勝3敗、59 2/3回、防御率4.11
3年春(1部) 3試合1勝1敗、16回、防御率3.93
3年秋(1部) 1試合0勝1敗、1回、防御率9.00
4年春(1部)
4年秋(1部)
13試合5勝5敗、83 2/3回、防御率4.09
思い出ワンプレー 平成10年春、2部との入れ替え戦第3戦
1-1の8回2死満塁カウント0-3から相手打者を
辛うじて遊撃ライナーに打ち取った投球

実働1シーズンである。これだけの投手が本当にもったいないと思う。 先輩に飛び抜けて優秀な投手がいたわけでもなく後続の投手に先を越されたわけでもない。 詳しくは存じないが、3年春のシーズン途中に張田を襲った奇病が原因で以後、 満足な投球ができなかったという。1年秋、2年春のシーズンはシーズン当初に 事故を起こし、満足なシーズンが送れなかったという。悲運の投手である。

小池同様、これも筆者は彼の1番活躍したシーズンを見ていない。しかし1部で 4勝3敗の成績を挙げ、チームも4位に入った2年秋のシーズンは、決して まぐれではないと思う。創価大・流通経済大・東京学芸大に喫した3敗も、 内容を見てみると中盤まで互角近い戦いができている。杏林大というチーム 全体が1部校としての経験を積んでいれば、このシーズンにしてももっとおもしろい 戦いができたかもしれない。

しかし張田が戦線離脱したあとは、チームもより苦しい戦いが続く。3年秋は 高千穂商科大の不振で最下位を免れたものの、張田自身が主将に就任した4年次は 春秋ともに最下位。「張田さえいればこんなことには...」部長兼監督の内藤高雄氏が そう嘆くのもむりはないだろう。

そんな張田について筆者が "思い出ワンプレー" に挙げたのは2年春の入れ替え戦である。 このシーズン、張田はリーグ戦でもほとんど投げておらず、筆者の頭の中にない 投手だったが1敗したあとの第2・3戦に連投で先発。特に第3戦は1点を争う 緊迫した試合となった。もちろん張田の力投のおかげで延長サヨナラ勝利することは できたのだが、筆者の記憶に強く残るのは張田の力投ぶりよりも勝負の分け目となった場面。 それをあえて挙げさせてもらった。(この場面を別の切り口から紹介した文章は こちら)


負け尽くしたエース
--新村正憲--

所属校 杏林大
出身校 神奈川県立相武台高校
ポジション 投手
投打 右投右打
成績
1年春(2部)
1年秋(2部) 6試合3勝1敗、28回、防御率1.29
2年春(1部) 5試合0勝4敗、34 1/3回、防御率5.78
2年秋(1部) 5試合0勝3敗、35 2/3回、防御率5.40
3年春(1部) 5試合2勝3敗、35回、防御率8.22
3年秋(1部) 6試合2勝3敗、33 2/3回、防御率6.15
4年春(1部) 7試合0勝7敗、29 1/3回、防御率9.81
4年秋(1部) 5試合0勝1敗、?
39試合7勝22敗
思い出ワンプレー 平成9年秋、1部との入れ替え戦第2戦
積極的に内角を突いて日大生物打線を7回1点に抑えた投球

申し訳ない。取り上げるべきではなかったのかもしれない。わざわざ悪い成績を 紹介してしまった。

いい意味でも悪い意味でもないが、多く負けるということは必ずしも簡単ではない。 チームが負け続ければ2部転落もあり得るし、自分が負け続ければ登板の機会を失う。 だからそれを果たした新村をここでむりにほめる、ということではないが。

申し訳ないが、新村は1部で活躍していくのにはやや苦しい投手だったと思う。 張田のように球に威力があるわけでもなく、後輩の岩崎晃伸投手のように特殊性のある 投手でもない(岩崎は右下投げ)。コントロールミスの少ない制球力を武器に、 コーナーを丁寧に突くタイプである。もちろん1部ではそれができなければ話に ならないのだろうが、それだけでは苦しかったということであろう。それでも 相手をのらりくらりとかわす投球に相手打線がはまったときには非常に安定しており、 1部でも完封勝利を2勝挙げている。

新村が残した功績で大きいのは1部昇格への貢献である。すでに1部で何シーズンか 戦っている杏林大からすれば、今や1部で戦うことは当たり前のように、当人たちも 周囲も思っているかもしれないが、これは大変なことなのである。2部で優勝できそうな、 1部に上がれそうなシーズンが何度もありながら1部に昇格するのはとても大変だったのである。 新村の1年秋のシーズン、1部昇格に最も貢献したのは当時4年生の川野邊篤投手だったと 思うが、川野邊一人では実現できたかわからない。余分な四球を出さず、 強気に内角いっぱいに配球できる新村が戦力として加わったことはこのシーズンの 杏林大にとって非常に大きく、このシーズンの1部昇格が杏林大にとって 歴史的な出来事であるならば、新村の功績はチームの歴史にとって非常に大きい。 その意味もあって "思い出ワンプレー" ではそのシーズンの入れ替え戦での 新村の好投を挙げさせてもらった。


国際大を変えた男
--天田雅伸--

所属校 東京国際大
出身校 東京都私立佼成学園高校
ポジション 内野手
投打 右投左打
成績
1年春(2部)
1年秋(2部) 46打数16安打1本塁打8打点、.348
2年春(2部) 43打数17安打5本塁打13打点、.395
2年秋(2部) 42打数19安打1本塁打7打点、.452
3年春(2部) 42打数9安打1本塁打2打点、.214
3年秋(1部) 38打数16安打0本塁打4打点、.421
4年春(1部) 39打数15安打0本塁打2打点、.385
4年秋(1部) 54打数15安打0本塁打2打点、.278
304打数107安打8本塁打38打点、.352
思い出ワンプレー 平成10年春の第9戦(対東京農工大戦)
勝った方が優勝の直接対決でチームに勢いをつける先頭打者本塁打と
中押しとなる3点本塁打の、2打席連続本塁打

いい選手だった。筆者は在籍中に2部で天田と戦ったが、敵ながら天田は1部で やらせてみたい、と思っていた。どれだけできるのか楽しみだった。東京国際大という チームは好きではなかったのでチームは1部に上げたくなかったが、天田は 上げてみたかった。結局筆者が大学野球から離れたあとに1部に昇格し、1部でも 文句のない成績を残した。

天田の功績はいろいろな意味で大きい。個人的に2部で最多盗塁、1部でベストナインなど のタイトルを獲得しているが、そのへんは大きな功績ではない。個人の成績として 十分評価できる成績ではあるが、天田の功績で大きいのはチームを変えたことである。

天田の学年が実際にチームに加わり始めたのが1年春のシーズン後であろう。 この時期はチームにとってたまたまではあるが転換期にもなった。監督交代で チームが変わりつつあったが、天田はその影響以上にチームの雰囲気を変える力を 持っていた。ずば抜けた能力を持つ天田は攻守に活躍をしていたが、周りをひきつける 力があった。「苦しい状況も天田なら何とかしてくれる」、ナインはそう思って 苦しい試合も必死に耐え続け、それに天田が応えたときに一気に流れは好転する。 周りの選手は天田を見てプレーをし、天田が活躍すれば自分の能力以上の力を発揮する。 そんな雰囲気だった。特に天田の学年は 早くからチームの中心のような気でプレーしており、天田にひっぱられて非常に いい雰囲気でチームは回転していった。結局1部昇格、1部で3位、1部最下位回避、 といったさいきんのシーズンでは常にこの学年が中心にいた。天田加入までは、 実力がある選手がいながら熱いものがない、変にクールな集団だったが、 天田によって非常に明るく元気のあるチーム、その雰囲気に乗って実力以上の ものも出てしまういいチームに変わった。

そんな天田の "思い出ワンプレー" は、筆者在籍中の自分のチームとの対戦の中から 選ばせてもらった。平成10年春の2部リーグ戦は東京国際大と東京農工大の 熾烈な優勝争いとなり、リーグ戦終盤の「勝った方が優勝」という直接対決に もつれこんだがこの試合で我々は大敗した。その悔しさと、敵ながらあっぱれ の気持ちからこの試合での天田の2打席連続本塁打を選ばせてもらう。

天田の功績については別のページでも触れている(→こちら)。


チームを救い、2部を救った高速スライダー
--白坂公一--

所属校 東京理科大
出身校 宮城県立仙台第一高校
ポジション 投手
投打 右投右打
成績(すべて2部)
1年春 3試合2勝1敗、25回、防御率5.04
1年秋 8試合4勝2敗、62 1/3回、防御率1.88
2年春 7試合3勝2敗、64回、防御率0.56
2年秋 7試合3勝4敗、42 1/3回、防御率2.76
3年春 8試合4勝1敗、62 1/3回、防御率1.16
3年秋 4試合3勝0敗、20 2/3回、防御率0.44
4年春 7試合5勝2敗、58 1/3回、防御率2.31
4年秋 3試合0勝2敗、18 2/3回、防御率4.34
47試合24勝14敗、353 2/3回、防御率2.01
思い出ワンプレー 平成10年春ゴールデンウィーク
工学院大戦に0-1で完投負けした翌日、
東京国際大戦に0-4で完投負け

平成12年秋に久しぶりに白坂を見た。筆者は平成10年秋を最後に現場からは 離れていたので約2年ぶりということになった(正確には平成11年春にリリーフで 少し投げた白坂を見ている)。なんてことない投手になってしまっていたこと、 それを打ち崩せない母校・東京農工大打線と合わせて悲しかった。

白坂が1番よかったのは1年次だったと思う。3年春にチームが優勝争いに加わったときも よかったのかもしれないが、そのシーズンは筆者はあまり見ていない。 1年次の白坂は、いやもちろんそれ以後もそうだが、いい投手だった。右横手の投手。 直球もまずまず速いし、スライダーも速くてよく切れる。また、投手としての経験、うまさ、 マウンドさばき、そういったものもすでに持ち合わせている投手だったと思う。 初登板は1年春の我々・東京農工大との試合で、 不覚ではあるが5-6で我々は負けて1年生投手・白坂に初勝利をプレゼント。そのシーズン、 結局白坂加入前の借金が響いてチームは最下位になったが創価大グランドで行われた 入れ替え戦で創価大の選手が「いい投手だ」とほめながら観戦していたのを筆者は よく覚えている。入部間もない時期から2部No.1投手になったと言っても過言ではない。

しかしチームに恵まれなかった。東京理科大も一生懸命やっている面もあるし、 それなりにうまい選手も何人かいるが、どうしても白坂と比べて野手の戦力が 慢性的に弱かった。加えて練習環境にも恵まれず、グランドがなくて校舎の屋上で 練習していると言う。その状況で試合となれば白坂は投げ続け、勝つこともあるが 打線が打てなかったり守備がミスをしたりで勝てない試合もある。"思い出ワンプレー" に挙げたのはその象徴のような試合である。白坂は2部No.1投手と言っていい 実力を持っていながらチームとして優勝争いに参加したのは1度だけだった。

白坂は他の同学年の選手(ここに取り上げた他チームの選手を含めて)よりも早く、 1年春のシーズンから出場している。このシーズンはチームが最下位がかかっていた から仕方なかったのだろうが(結果的に最下位)、このことはチームの3部転落を救い、 2部のレベル低下も救った。平成8年秋でその年の4年生が引退したあと、 平成9年春は特定チームではなく2部全体のレベル(特に投手レベル)が一気に下がった。 そこをついて3部から昇格したばかりの日本工業大が一気に優勝したわけだが、 この2部のレベル低下に最初の歯止めをかけた意味で白坂の登場は大きい (続いて東京国際大から天田ら、杏林大から新村らが出てくることになる)。

その白坂も結局投げ過ぎによるものか、途中ちょっとした故障もあったらしく、 3年秋からあとは登板を抑えるか投げても従来ほどの投球はできなかったようである。 残念なことではあるがこの時期を共有した者たちは、自チーム・他チームを問わず 白坂の存在は何年たっても覚えていることだろう。2部通算24勝という記録も すばらしいが、記憶にもしっかり残る選手だったと思う。


変幻自在、喜怒哀楽の左腕
--柏井伸二--

所属校 東京農工大
出身校 高知県私立土佐高校
ポジション 投手
投打 左投両打
成績(すべて2部)
1年春
1年秋 4試合0勝2敗、12回、防御率7.50
2年春 3試合2勝1敗、20 2/3回、防御率4.36
2年秋 7試合2勝2敗、46回、防御率2.54
3年春 8試合2勝4敗、53 2/3回、防御率1.51
3年秋 7試合5勝1敗、47回、防御率1.91
4年春 7試合6勝1敗、55回、防御率1.47
4年秋 5試合4勝1敗、56回、防御率1.61
41試合21勝12敗、290 1/3回、防御率2.20
思い出ワンプレー 平成10年秋の第10戦(対東京国際大戦)
8-9の9回2死3塁で天田を投ゴロに打ち取った投球

平成12年秋の第9戦(対東京理科大戦)
最後の打者・宮崎を全力の直球で三振に打ち取った投球

よくがんばったと思う。よく投げた。体に恵まれたわけではないが、多彩な変化球を 武器にシーズンを重ねるごとに安定した投球をするようになっていった。 特に3年秋以後の成績はすばらしい。この4年間のうちの前半に活躍したのが 白坂ならば後半に活躍したのは柏井。平成12年春から2部で設立された最優秀投手の タイトルに最初に輝いたのも柏井である。

ところで、筆者の感じる限り、柏井の投球自体が3年次以降に急によくなったという 印象はあまりない。1年次・2年次もそれなりに投げており、例えば球がいつからか急に 速くなったとか、コントロールがいつからか急によくなったということはないと思う。 エースではないにしろ、名門の土佐高校で高校野球に取り組み、中学時代の公式戦では 5回参考記録とは言っても完全試合も達成している柏井は、入学時の段階でも それなりの実力を持った選手だったと思う。別に、大学で急に伸びたわけではない。

しかし結果的に成績は途中からぐんと伸びた。柏井が言う一つには「周囲のレベルの低下」 があり、これはその通りだろう。あるいは経験を積んだとか勝ち方を覚えたといったことも あるだろう。ただ、それらよりも柏井が4年間を振り返った言葉の中で 言っている「背負っているものの違い」が大きいように思う。別に1・2年次に 手を抜いていたわけではないだろうが、3年生になって "自分たちの代" となり、 自身は副主将に就任(東京農工大は伝統的に3年生が主将・副主将を務める)。 主将の田中とともにチームの勝利のためにベストな方法を考えに考え、 周囲に伝え、自らもプレーで示す。4年次には今度は、チーム編成上、柏井が がんばらなければどうにもならないチームだったために、必然的に大きな責任を 背負わされたと言える。柏井以外では2シーズンで1勝しか挙げられなかった チーム状況の中で、4年秋には延長11回を投げ切った翌週に延長15回を投げ切り、 チームのサヨナラ2連勝を演出するなど、まさに「チームを背負って」の孤軍奮闘だったと言えるだろう。 肩はずっと痛かったらしいがそれでも多彩な変化球を駆使してなんとか苦境を乗り越え 続けた精神力はすばらしい。

大きな責任を背負って投げる中で、柏井は喜怒哀楽を現す。サヨナラ本塁打を食らっては泣き (3年春、対東京国際大戦)、味方が逆転サヨナラ勝利を挙げれば泣き(4年秋、対日本工業大戦)、 学生最後の引退試合で泣き...。投げている途中で味方がエラーをすれば後輩なら叱り飛ばし 先輩だとにらみつける。後輩の投手がふがいない投球をすれば投手交代が告げられなくても 勝手にブルペンからマウンドに上がって後輩を引きずり降ろす。普段は落語を 趣味とするなどおもしろい男なのだが、野球については真剣に、熱く取り組んでいたと思う。

そんな柏井についての "思い出ワンプレー" は、二つ挙げさせてもらった。 一つ目は筆者が彼らと最後に野球をしたシーズンからである。当時、得失点差ルールが 適用されており、ここで挙げた試合は2点差で負けると最下位決定プレーオフを戦わなければならず、 3点差以上で負けると単独最下位決定という試合だった。一時1-9と大量リードされた試合も 打線の猛烈な反撃で8-9まで追い上げ、柏井がその後の相手の攻撃を抑えてそのまま 9回表まで来た。ここで2死3塁となって筆者が高く評価しており、ここでも 取り上げている天田を打席に迎えた。筆者がベンチからマウンドへ。天田は恐いが 柏井との相性、2点差はともかく3点差は避けなければならない状況、そして 何より柏井の気持ちを感じて「勝負」の意思を伝えた。この場面で柏井が天田を 打ち取った投球は、最下位回避を決定づけた意味でも非常に印象に残っている。 二つ目はおまけのようなものだが、筆者が柏井を見た最後の試合で「陽三さんに 勝ちを見せるまで引退できませんよ」と言った試合で柏井は見事に完投勝利を収めた。 その最後のシーンを取り上げさせてもらった。

東京農工大で考え抜いて真剣になった4年間を、これからもあちこちで役立ててほしい。


農工野球の塊
--田中秀和--

所属校 東京農工大
出身校 長崎県立長崎西高校
ポジション 捕手
投打 右投左打
成績(すべて2部)
1年春 1打数1安打0本塁打0打点、1.000
1年秋 6打数1安打0本塁打0打点、.167
2年春 40打数9安打0本塁打2打点、.225
2年秋 34打数11安打0本塁打3打点、.324
3年春 34打数8安打0本塁打2打点、.235
3年秋 34打数7安打0本塁打5打点、.206
4年春 43打数6安打0本塁打6打点、.140
4年秋 36打数7安打0本塁打3打点、.194
228打数50安打0本塁打21打点、.219
思い出ワンプレー 平成10年秋の第5戦(対東京国際大戦)
柏井とバッテリーを組んで天田の第2打席に見逃し三振を
とった配球

4年間、田中をほめたことはほとんどなかった。よくがんばっているとは思ったのだが、 もともとほめるのがうまくない筆者は、後輩をほめることは少なかった。 今回どれくらいほめられるか、やってみようと思う。

田中も柏井同様、それなりの実績を引っさげて入部してきた。 長崎西高校で1年夏からベンチ入り、3年次には主将も務め、 捕手のレギュラーだったと言う。柏井と違って浪人期間もなく、バリバリの現役で 入ってきた。しかし筆者が田中の野球観に触れ、しっかりした考え方を持ったやつ だと思うようになったのは彼の2年秋くらいか、あるいは筆者が現場を離れた、 彼の3年次以降くらいだったかもしれない。1年秋に劣勢が続くチーム状況の中で ベンチに置かれた田中は不満もあってかけっこうブツブツ文句を言っていた。 2年になって3番・捕手のレギュラーとなったものの、長打力があるわけでもなく 打撃での印象度は薄い(バントはうまかった)。捕手としてもいろいろ考えては いたと思うが、盗塁阻止などの面でもの足りなさを感じていたのも事実である。 つまりはある時期まで筆者の田中に対する評価は高いものでなかった。

そんな田中が残した大きな功績は、農工野球の確立である。いや、確立した次の年には 崩壊に近い状態だったので確立とは言えないかもしれないが。

その農工野球は、近年では田中の2学年上の斉藤康弘主将が始めたと言える。 それまでの東京農工大は、そこそこ素質に恵まれた選手がたまたま何人かいてそれらに頼る 形のチーム構成となってしまい、競争意識や向上心がやや欠けていたチームだった。 その意識改革から斉藤は始めたのである。 試合での勝ち負けはともかく、その精神は少しずつチームに浸透していったと筆者は思っている。 そして白鳥誠主将をはさんで、田中に受け継がれる。理系の国立大学という、 あまり恵まれない環境の中で2部の他チームと戦っていかなければならない。 勝つために何をすべきか、何をするのがベストか。それを考えに考え抜く。 常に上のレベルを目指して 先輩とも積極的に意見交換をし、野球初心者レベルの後輩たちには口うるさく 指導を重ねる。連敗中には柏井とともに試合前日なのに朝まで打開策を語り あっていたと言う。とにかくまじめで真剣、自分は常に全力、頭は野球のことだけ、 そしてチームをまとめることに腐心してきたようである。

結果が表れ始めたのが3年次の夏。2連覇中だった東京都国公立大学体育大会(トーナメント)で 3連覇を飾った。1年目は何もわからず勢いで勝った優勝、2年目は前年を まぐれと思われないように懸命になった優勝だったろうが、3年目は優勝を狙って 獲った優勝ということで意味が大きい。特に準決勝戦で東京学芸大と引き分け (ジャンケンで決勝進出)、決勝戦で東京大を寄せ付けず圧勝したわけだから、 単にまぐれとも言えない優勝である。「優勝を狙う」、最初からナインに対して そう意識づけさせてうまくまとめた結果だろう。春までは不振だったチームは このあたりから好転し、秋のリーグ戦では8勝2敗の2位。優勝した工学院大に 2敗を喫してしまったが星は同じ(得失点差で2位)。近年の東京農工大から 考えればすばらしい成績である。4年生の岩本学選手や伊藤勝悟選手が打ちまくり、 投げては岩本・柏井の2本柱がきっちり抑えての結果ではあったが、チームを 立て直すために悩み苦しみ、考え抜き、戦力が劣る部分もやりくりで補い、 常に努力を怠ることなく前進を心がけるようナインへの意識づけを行って、 いい方向にチームをまとめあげた田中の功績は大きい。

そんな田中の思い出ワンプレーを選ぶには苦労した。チームとしても最も 好調だった田中の3年秋は、筆者が観戦に行った2度とも大敗してしまった (8勝2敗の2敗だけを見てしまった)。4年秋の日本工業大戦で延長11回に 走者2人を置いて逆転サヨナラ打を放ったと聞き、ヒーロータイプではない田中にとってこれは おそらく4年間のベストプレーだと思うが、筆者は目撃はしていない。 結局2年秋の東京国際大戦で、それまで当たりに当たっていた天田を、 柏井とバッテリーを組んでうまい配球で見逃し三振に打ち取った場面を挙げさせてもらった。 (後に田中は「あれは天田への挑戦であるとともに陽三さんへの挑戦でもあった」と 言っている)

東京農工大での田中が自分なりにやってきたやり方はまちがっていなかったと思うので、 自信を持って卒業していってもらいたい。


柏井・田中と、連盟に功績を残したというよりは東京農工大に功績を残した ように感じてきた。その意味でここに取り上げるのはいささか趣旨が異なるかも しれないが、後輩ということでお許しいただこう。2人は自分の野球観や 部に対しての考えを、ホームページを開設して公開している。これからこういう 選手も増えてくるかもしれないが、まだ希少価値と言えるだろう。彼らが残した "形" をここで紹介しておく。


2部運営の完成
--藤島由幸--

所属校 東京理科大
出身校 新潟県立三条高校
ポジション 外野手
投打 右投右打
成績(すべて2部)
1年春
1年秋
2年春 1打数1安打0本塁打、1.000
2年秋 4打数2安打0本塁打、.500
3年春 24打数7安打0本塁打、.292
3年秋 18打数2安打0本塁打、.111
4年春 17打数2安打0本塁打、.118
4年秋 15打数3安打0本塁打、.200
79打数17安打0本塁打、.215
思い出ワンプレー 平成12年秋の第9戦(対東京農工大戦)
柏井から3打数2安打2打点。左翼線安打と左前2点適時打。

残した成績は見てわかる通り、大した成績ではない。打撃ではなく守備・走塁で光る貢献を したかと言えば、そういうわけでもない。しかし、この4年間を語るに藤島の功績を見逃す ことはできないであろう。

平成9年当時、この連盟の2部以下にはこまごまとした問題が山積みになっていた。 というよりは連盟上層部がそもそも下部に対して無関心でほったらかし、 下部の関係者はそれはそれでなんとなく、先代からのノウハウをもとにリーグ戦を 運営していた。部を超えてという意味でも、世代を超えてという意味でもバラバラだったと 言っていい。当時の状況を挙げる。

実は筆者自身も平成5年から8年まで在籍し、その中で感じてきた疑問をもとに 平成9・10年といくつかの改革提案を連盟に対して行わせてもらい、3時間ルールの 徹底だけが実を結んだが日程の問題など提案を行っても改善されなかったものもあった。 提案の仕方が弱かったのと連盟側の対応が悪かったのと両方あるだろう。

そうこうしているうちに平成10年秋が終わり、筆者は現場から離れる身となった わけだが、ここで現れたのが東京理科大2年生(当時)の藤島である。まず藤島は 次季(平成11年春)の当番校に立候補。日程編成についての方式を確立させ (1部リーグ戦は前季順位をもとにした日程編成方法が確立されている)、 主務会議で他チームの承諾を得た。それとともに3部各校にも働きかけている (3部が同方式を取り入れたのは結局3季遅れた平成12年秋)。そしてそれまで 当番校がやったりやらなかったりだったシーズン後の成績報告も、きちっと 作成して連盟と他チームに公表した(おまけにシーズン中に途中経過報告も作成して 各チームに配布している)。

1年たった平成12年の年始の主務会議で、杏林大の内藤部長から「2部・3部の 得失点差ルールの撤廃」が提案されてあっさり採択されたと聞くが、実はこの提案に 至る過程でも藤島の意見が込められている。関係者にとって大きなルール改編であり、 直接の提案は内藤氏からのものだったが藤島も関与しているのである。それを 含めて日程編成方法・順位決定方法・プレーオフ実施方法等を定めた「2・3部 運営に関する規定」の策定にも関わっている (こちら)。 それまでうやむやのまま先代からのノウハウをなんとなく受け継いできた2・3部の 運営において、文章化したものを公表した功績は大きい。

結局藤島は当番校を3シーズン務めた。適宜他チームの意見もうかがいながら、 よかれと思う意見を押すところは押す。連盟に対しても "現場(2部)を最も知る男" として対等に渡り合い、意見を述べた。そして当番校としてのノウハウも確立させ、 平成12年秋に東京農工大に引継ぎ。引き継いだ後の指導や助言も怠らなかった。

また、運営と直接は関係ないが、2部リーグ戦の情報を伝えるメディアとして インターネットに着目。平成11年春秋には東京理科大硬式野球部のページで 詳細な試合結果を伝え、平成12年春には筆者担当の東京新大学野球連盟の ページに詳細な情報を送ってくれた。ともに藤島自身が管理するページではないものの、 有益かつタイムリーな情報提供を行うことで見事にリーグをアピールしたことの 功績も見逃すことはできない。

藤島がこの4年間に行った功績は大きい。言わば当たり前のことを実現させた だけかもしれないが、当たり前のことができずに10年以上はずるずると運営されて きていたわけだから、それに手を加えることはなかなか簡単ではなかったと思う。 そして彼のチャレンジはまだ終わらない。連盟のさらなる発展とレベルアップを期待し、 (以下はオフィシャルなものではないが)50周年記念事業への提案、4部制改編案についての意見、 入れ替え戦運営方法への提案、試合会場の改善のための模索...など多岐にわたる 活動はすばらしく、これらは継続中の模様である。ある意味で「この学年の中で連盟を最も愛した男」。 プレーヤーとして記録にも記憶にもあまり残らなかったかもしれないが、 その残した "形" はここに取り上げた誰よりも大きい。


筆者のメールアドレス

東京新大学野球連盟のページ(筆者作成)

筆者の「ひとりごと」集のページ

筆者のホームページ