日本工業大の浮沈---激動の7年小史---

(東京新大学野球連盟2部に所属する東京農工大学を卒業した山口陽三が東京新大学野球連盟の 1ファンとして独自の観点で勝手に語ります)

はじめに
筆者が平成5年から平成10年まで所属した東京農工大学硬式野球部、その部が 所属している東京新大学野球連盟。そこで筆者は数多くの試合をしてきたし、 また、数多くの試合も見てきた。筆者在籍中は自分の大学が同連盟2部に 所属している期間が長かったのだが、同時期に2部に在籍していた各大学 に対してはいろいろな思いがある。例えば工学院大や杏林大は、筆者 入学以来、勝つことを目標にしてきたチームだったし、東京理科大や駿河台大 といったチームは同じくらいのレベルで「負けられない」ライバルチーム だったと、筆者個人は思ってきた。

平成10年秋のシーズンを最後に、筆者は大学の卒業(正確には大学院修了) によってチームから離れた。しかし自分のチーム、さらには連盟に所属する 各チームに対する興味はやはりつきず、平成11年春のシーズンも何試合か 観戦に行った。そしてそのシーズンを締めくくる入れ替え戦で、1部6位校の 日本工業大(以後「日工大」)が2部1位の東京国際大に1勝2敗で敗れ、2部転落となった。 筆者は在籍中に日工大と対戦したことはあまり多くはないのだが、その中でも 印象的な試合が多く、日工大には日工大に対してのそれなりの思い入れがあった。 そういった経緯で今回の「ひとりごと」は日工大に焦点を当ててみよう と思うのだが、焦点を当てる理由は他にもある。今回の2部転落が示す ように、日工大はここ数年(と言っても筆者が知る限りなので平成5年以降ということ にはなるのだが)、東京新大学野球連盟に所属する20チームの中でも 最も激動の歴史を歩んできたと思うのだ。今回はいつもの「ひとりごと」 とはやや趣を変え、単に日工大の歴史を振り返り、事実を示すことを中心とし、 「なぜそうなったか」の自分なりの意見は控えめに展開したいと思う。


日工大の戦績

まず平成4年から平成11年春までの日工大の戦績を示す。ちなみに日工大の 連盟加盟は昭和45年、そしていつからかはわからないが平成2年春までは 日工大は1部に所属していたようである。

シーズン 戦績 備考
平成4年春 2部 2位?
平成4年秋 2部 9勝1敗、1位 2位と並ぶも得失点差で優勝、入れ替え戦敗退
平成5年春 2部 7勝3敗?、3位
平成5年秋 2部 6勝4敗?、3位
平成6年春 2部 4勝6敗、4位
平成6年秋 2部 3勝7敗、6位 4・5・6位が並び得失点差で順位決定
入れ替え戦0勝2敗で3部転落
平成7年春 3部 6勝4敗、3位 1・2・3位が並び得失点差で順位決定
平成7年秋 3部 7勝3敗、2位
平成8年春 3部 7勝2敗1分、2位
平成8年秋 3部 8勝2敗、1位 入れ替え戦2勝0敗で2部昇格
平成9年春 2部 8勝2敗、1位 入れ替え戦2勝1敗で1部昇格
平成9年秋 1部 3勝8敗1分、勝点1、5位 4・5・6位が勝点1で並び勝率で順位決定
平成10年春 1部 4勝7敗、勝点2、4位
平成10年秋 1部 1勝10敗、勝点0、6位 入れ替え戦2勝0敗で1部残留
平成11年春 1部 1勝10敗、勝点0、6位 入れ替え戦1勝2敗で2部転落
平成11年秋 2部

平成5年から7年にかけて急降下、平成8年から平成9年にかけて急上昇している 様子がわかってもらえるだろう。また7年間で6回の入れ替え戦を経験。まさに 激動の道を歩んでいる。ここではこの7年間を適当に区切り、順番に日工大の 歴史を追ってみたいと思う。


日工大史上最高の男、星幸一

「史上最高」はもしかすると言い過ぎかもしれない。筆者は日工大の歴史の中でも たかが7年間を対象にしているにすぎないのだから。ただ、少なくとも 今回対象とする7年の歴史の中では星幸一という男は日工大史上最高の選手だろう。

星幸一は、春日部工業高校の出身、日工大入学は平成3年だが、筆者は実は全盛期の 星を見ていない。星の全盛期と言われるシーズンは大学2年次の平成4年秋。日工大が 杏林大との優勝争いの末、9勝1敗で2チーム並びながら得失点差で優勝を 飾ったシーズンである。このシーズン、エースで中軸も打っていた星は、 細かい数字は手元にないのだが5冠王だったというのである。わかってもらえる だろうか? 打者として首位打者・最多本塁打・最多打点、投手として最多勝利と 最優秀防御率である。最多奪三振なんていうタイトルも設けていたらそれも多分 獲得しただろうし、2部の最優秀選手の制度があれば当然それも獲得しただろう。 その後平成7年秋に杏林大の井澤俊介(平成7年時3年生、作新学院高校出身)が 投手の3冠、平成8年秋に東京農工大の佐藤秀雄(平成8年時4年生、国分寺高校出身) が打者の3冠を獲得したことはあったが一人で投打のタイトルを総なめというのは なかなか聞かない。平成9年春に東京農工大の中島敬蔵(平成9年時3年生、飯田高校出身) が投打2冠ずつの4冠を獲得しているがこのときは首位打者・最優秀防御率と いった大事なところを獲得していない(しかもチームも優勝していない)。 星が5冠を獲得したこのシーズン、 1部昇格はならなかったようだがとにかく筆者は東京農工大に入学したとき先輩たちに、 「日工の星はすごい。あんな球なかなか打てない」「とにかく日工は半端なく強い」 と聞かされていた。そう、このときの日工大は星はもちろんすごかったらしいのだが 全体的にレベルの高い選手がそろっていて、豪快さの他にソツのなさ、細かさ といったものも持ち合わせていたらしいのである。


星の引退と日工大の凋落

ところが星が3年生となった平成5年は今一歩日工大が優勝に届かない。この年から 急激に工学院大が好選手の加入によって力をつけたのは筆者の他の「ひとりごと」 (こちらなど)でも 触れているが、工学院大の連覇が始まったことで日工大の優勝が遠のいた。 しかし工学院大の成長だけが理由ではないようにも感じる。平成5年春は我々・ 東京農工大も弱くて簡単に日工大に2敗したのだが秋には1勝1敗だった。 筆者も先輩たちに聞かされるほどの強さを日工大に感じなかった。星の投球を 見る機会は何度かあって(ちなみに平成5年は我々との対戦では1度も登板して くれなかった。なめられていたようだ)、確かに球は速いと感じたが、2部の打線も 手が出ないまででもなく、打たれている試合も見た。よくはわからないが、前年で 星自身が「燃え尽きた」に近いものはあったのかもしれない。来ていない試合も あったらしく、筆者の先輩たちは「女遊びが忙しいんじゃないか」などとバカな 冗談も言っていたが、あまり気持ちが入っていなかったとかチームとうまく いっていなかったといったことはあったかもしれない。ただ、なにぶん筆者自身が 1年生のときの話なので詳しくはわからない。

平成5年秋後の入れ替え戦で我々・東京農工大は3部転落となり、平成6年は 日工大とは別の部に所属することになった。それゆえにそれこそ日工大の様子は あまりわからないのだが4年生になった星はどうやらチームから離脱。ここから 日工大の凋落は本格化する。平成6年春は、3部から昇格してきたばかりの 東京理科大が低迷したこともあり4位にとどまったが、秋には3勝7敗で最下位。 駿河台大・西東京科学大(現帝京科学大)と勝敗が並んだが得失点差で最下位に なったようだ。運もなかったが、入れ替え戦では3部で全勝優勝を飾った 我々・東京農工大に2連敗。自画自賛するわけでもないがこのときの我々は 非常にチーム状態がよく、日工大でなくて駿河台大・西東京科学大などが 出てきたとしてもなんとか勝てたと思う。そういう意味でやはり日工大に 運はなかったのだが、このときの日工大は星、あるいはそこまでいかないまでも スーパースターのような抜き出た選手がいなかった。3番センターの宮永諭 (当時3年生、新潟工業高校出身)は左打ちで足もあり、柔軟な打撃ができる いい選手ではあったがそれをサポートできる選手が足りない。後に1部昇格の 立役者ともなる木村昭裕(当時1年生、高崎工業高校出身)はこのときすでに 4番を打ってはいたもののまだ1年生。守備は全体的に堅いもののレギュラーの 定まらないポジションもあったかんじだ。そして何より星なきあとの投手陣が 不安定。エースは1年生の勝俣貴文(杉戸高校出身)が務めていたようだが今一歩 特徴の少ない右投手で、3年生の熊田芳紀(清陵情報高校出身)・斉藤貴之 (春日部工業高校出身)あたりも力不足だった。投手のやりくりには相当苦労している 様子が我々との入れ替え戦でも見えた。


3部校の抵抗、日工大の苦闘

平成7年から我々・東京農工大は2部で、日工大は3部で戦うこととなったので それはそれでやはり筆者は日工大の様子はあまりよくはわからない。ただ、3部 時代に作った人脈を生かし、東京都立大の原田一博・窪田直、東京電機大の 長沼努、東京外国語大の鈴木太朗(敬称略、出身校等略)あたりとは連絡をとったり 話をする機会はあったので一応、できる範囲で日工大の戦いぶりを把握してきたつもりである。

平成7年春、日工大転落後最初のシーズンだ。筆者は前のシーズンで自分のチームが 10戦全勝で3部を征していたこともあり、「日工大の戦力なら3部で普通に勝って いけるのでは」とも思っていたが日工大は苦戦。前のシーズンで3部最下位に 甘んじた電気通信大が突如優勝争いに加わるなど、リーグ戦全体が大混戦。 結局東京都立大・電気通信大・日工大が6勝4敗で、国際基督教大・東京外国語大・ 東京電機大が4勝6敗で並ぶという珍しいシーズンとなり、連盟規定の得失点差で 東京都立大が優勝をさらった。この東京都立大が、2部で大敗を続けて最下位となった 西東京科学大に入れ替え戦で2連勝して2部に昇格したことを考えれば、 日工大の不運はまだ続いていたと言える。

同年秋は7勝3敗の戦績を残したものの、前のシーズンに混戦の末最下位となった 東京電機大が8勝2敗で優勝。続く平成8年春のシーズンは7勝2敗1分の戦績 を残したものの東京外国語大が8勝2敗で優勝。平成8年秋は3部転落後4シーズン目。 筆者の "4シーズン理論" でいけばこのシーズンで上がれなければしばらくは 3部に染まってしまうという節目のシーズンだったが、ようやく8勝2敗で優勝。 前のシーズンで3部優勝・2部昇格を果たしながら2部で10戦全敗の戦績で 最下位となった東京外国語大との入れ替え戦に挑むこととなった。


3部から一気の2段階昇格、15季ぶりの1部復帰

平成8年11月16日、日工大にとってみれば本拠地の日工大グランドで行われた 入れ替え戦第1戦、初回から日工大はここ数シーズンの低迷をはらす猛攻を見せる (スコアはこちら)。 1死後、安打と四球で1.2塁とし、今やだいぶどっしりとして風格も出てきた 4番の木村が先制の適時2塁打。1走・深見大輔(当時3年生、七尾工業高校出身) が本塁憤死し、2死となったが5番・藤原一成(当時3年生、秋田工業高校出身) の打球が三塁の失策を誘い、2点目。さらにその三塁前に岩井悟(当時3年生、 大宮工業高校出身)がバント安打をきめてゆさぶり、四球を挟んでの満塁から 押し出し四球、2点適時打と一気にたたみかけた。たたみかけられた東京外国語大も だらしない部分がおおいにあるのだがどちらが2部でどちらが3部かわからない 試合となった。日工大投手陣も3投手が13四死球を出すなどだらしない試合と なって終盤もつれたが13-9で日工大が先勝。第2戦は2-1と日工大リードの 5回2死2.3塁で日工大4番の木村が勝負を決めにかかる3点本塁打。日工大 は第1戦とはちがう2投手(合計5人以上投手を持っていたことになる)の 継投で9四死球を与えたものの4安打に抑え、7-2で第2戦をものにした。

平成9年春、日工大は久しぶりに2部で戦うこととなったわけだが筆者はシーズン前に 日工大は2部の2強に続くレベルまで一気に行く可能性はあると思っていた (優勝するとは思っていなかった)。このころ2部の優勝争いと言えば杏林大と 東京国際大が必ずと言っていいほど絡んでいたのだが、その2強に続くチーム として日工大は非常におもしろい存在だと思った。投手陣が 何人もいるわりには軸がいなくて不安定だとは思ったが野手のレベルが思ったより 高い。3部のチームという印象ではなかった。俊足の塚野武(当時3年生、新潟工業高校出身)・ 金子達雄(当時3年生、大宮工業高校出身)が上位を打ち、4番には風格漂う、 非常に勝負強い木村がいる。岩井・瀬辺孝一郎(当時4年生、川崎工業高校出身) は足のある左打者で相手にとってイヤな存在だ。守備も塚野・金子が守る外野は 心配ないし三塁の瀬辺は強肩。遊撃・一塁の守備にやや不安があると思ったが とにかく昇格してすぐまた最下位、ということにはならないだろうとは思った。 東京都立大の窪田も「打撃は特別すごいとは感じなかったが守備がとにかく 堅かった。自分も、日工大は2部で最下位にはならないと思う」ということは言っていた。

このシーズン、開幕戦で日工大は我々・東京農工大に15-5と圧倒的な強打を 見せてコールド勝利。第2戦で東京国際大に完封負けを喫したものの第3戦では 駿河台大・駒木康祐(当時3年生、沼津城北高校出身)の乱調も手伝って 初回に塚野の満塁本塁打等で10点を先制して15-0でコールド勝利。第4戦は 東京理科大に8-1でコールド勝利し、3勝1敗で第5戦を迎えた。日工大は ここまで野手の高いレベルで他チームを圧倒してきたが軸のいない投手陣も がんばった。第1・2戦は左の服部拓(当時3年生、四日市工業高校出身)が完投、 第3戦は右の軟投派・真田英(当時4年生、新潟工業高校出身)が勝利投手、 第4戦は左の軟投派・大谷慎吾(当時2年生、大宮工業高校出身)が勝利投手だった。 そして第5戦の相手はやはり3勝1敗の東京農工大。リーグ戦中盤にして 優勝争いを占う大きな試合となった。日工大は立ち上がりから相手先発の 岩本学(当時2年生、鳥取西高校出身)を攻め、敵失も重なり6回で9-1と リード。7回を抑えればコールド勝利という展開だったがここから東京農工大が 猛反撃。日工大は反撃を受けた服部がKOされ、2番手の大谷も満塁本塁打を 浴びるなど1点差にまで迫られた。しかしここから大谷が勢いに乗る相手打線の 8・9回の攻撃をしのぎ、9-8で逃げ切った。6回まででレギュラー選手の多くを ベンチに下げていた日工大はまさに薄氷を踏む勝利、大きな勝利だった。 第6戦は前のシーズンの覇者・杏林大に8-6で勝利し、第7戦は1戦目で 大勝した駿河台大を迎えた。この試合で日工大は、3年前の3部転落時に エースだった勝俣を先発に持ってきた。勝俣はこのシーズン、1試合(2イニング)だけの 登板にとどまっていた。この勝俣が安打を打たれながらなんとか3失点で しのぎ6-3とリードして9回を迎えたがここから駿河台大が反撃。4安打を 集めて同点に追いついた。第5戦の東京農工大戦以来、投手陣の方には 不安が見えてきた日工大だが野手のレベルの高さがそれをフォローする。 延長10回、塚野の2塁打と木村の内野安打で無死1.3塁と攻め、 最後はプレッシャーに負けた相手投手・駒木の暴投でサヨナラ勝利を収めた。 第8戦は1部から転落してきて4シーズン目の東京国際大。唯一日工大に 土をつけていたチームではあったがこのシーズンは東京国際大がまったくふるわなかった。 6-5で日工大が逃げ切った。そしてマジック1で迎えた第9戦、このシーズン 不調で最下位がかかっていた東京理科大が最下位回避への執念を見せ、5回まで4-0と リード。しかし日工大も5回に瀬辺の満塁本塁打で同点。そしてここからさらに 熾烈な試合となった。両軍点を取り合って7-7で延長へ。日工大は8回から 大谷、東京理科大は10回から白井憲一(当時2年生、日大習志野高校出身)が 登板し好投。東京理科大の方に2度ほどサヨナラのチャンスはあったものの ものにできず延長戦は16回までいった。結局16回に白井が力尽き、日工大が 3点を勝ち越し。10-8で勝って優勝を決めた。2部昇格直後の優勝である。

平成9年6月14日、日工大は1部最下位の工学院大との入れ替え戦に臨んだ (スコアはこちら)。 第1戦は服部を先発させたものの5回途中5失点でKO。打線が終盤に 工学院大先発・佐藤嘉紀(当時2年生、工学院大附属高校出身)から主将・ 工藤一俊(当時4年生、神奈川工業高校出身)の2点本塁打等で4点を返すも 及ばず4-6で負けた。しかし第2戦、背水の先発マウンドに立った大谷が 好投。そして3-2とリードして迎えた日工大7回の攻撃で木村・川田貴史 (当時2年生、伊勢崎工業高校出身)の適時2塁打等で5点を追加し、 9-2でコールド勝利した。1勝1敗で迎えた第3戦はドラマチックな試合 となった。第1戦の勝利投手・佐藤を先発させなかった工学院大に対し 日工大は中盤までリード。工学院大はここまで登板のなかった「1番いい投手」 岡川貴光(当時2年生、工学院大附属高校出身)を中盤から登板させたものの 調子は悪いようでさらに追加点を奪われる。日工大は10-2で8回を迎える。 裏を抑えればコールド勝利のこの場面で工学院大も意地を見せ、先発勝俣をKO。 代わった服部・大谷も攻めて3点を返す。 さらに9回、工学院大は大谷に連打を浴びせた。横溝陽介(当時3年生)・ 岡部良直(当時4年生)・志摩守博(当時3年生、3名いずれも工学院大附属 高校出身)の3連打で1点を返す。日工大は主将の工藤がマウンドへ。 大谷はなんとか2死をとったが串田純司(当時2年生、工学院大附属高校出身) の2点適時打等で工学院大が10-9まで迫った。工藤がマウンドへ。大谷を代えるつもりは なかったようだがルールを知らずに1イニング2度目のマウンド行きをしたようだ。 2塁塁審から投手を代えるよう言われる。勝俣-服部-大谷とつないだ 日工大は代える投手といったら超軟投派の真田くらいだ。日工大が抗議する。 わざとか本当にそう思ったか「1度目のマウンド行きは前のイニング」と言い出した。 9回の攻撃が長くてゴチャゴチャしていたこともあり、審判団もそれを 信じてしまった。これで日工大が逃げ切っていたら審判にしろ記録にしろ 連盟自体の大失態だったが(筆者は日工大応援の観客の立場だったので 知っていて黙っていた)、2死3塁から工学院大は岡部秀直(当時2年生、 富士森高校出身)の同点適時打でなんと追いついた。8点のビハインドを 2イニングで追いつき延長戦に入った。
はっきり言って投手陣の失態である。8回途中まで好投した勝俣はともかく リーグ戦で軸になった服部・大谷で8点のリードを吐き出した。ベンチワークも バタバタした。日工大の雰囲気が悪くなったとしても何も不思議はないが このチームは強かった。精神的にも強かった。野手がよかった。10回、金子が 四球で出塁し、村井和幸(当時3年生、新潟工業高校出身)は死球を食らい、 バットをたたきつけて投手をにらみつける。触発された工学院大の捕手・ 串田も興奮し異様な雰囲気に。そして塚野の2点適時3塁打で日工大が 勝ち越した。工学院大は3番手で投げていた村木久哲(当時3年生、工学院大附属高校出身) はKOされ、佐藤がマウンドへ。佐藤も木村に3塁打、工藤に犠飛、藤原に 2塁打を浴びる。泣き出したらしくセンターから4年生の岡部良がかけつけ 慰めるも佐藤は自分からマウンドを降りた。打たれた悔しさか、どこかの痛みをおしての投球 だったのか。追いついた側の工学院大も思ったよりチームはガタガタだ。 日工大4点リードで10回裏を迎えた。工学院大も2死満塁まで攻めたが 最後は苦しみながら大谷が投げきり14-10で日工大がこの試合をものにした。3部から 1部へ。一気の2段階昇格の瞬間である。試合中熱くなった村井が泣く。 ちょっと不良っぽい藤原もタオルで目を押さえる。なかなか見られない 光景を見た。

日工大の2部昇格はある程度当たり前としてすぐに1部に昇格するとはなかなか 予想できなかった。できた人は少ないと思う。平成9年春。このシーズンを簡単に 振り返れば、いろいろなところで日工大に運はあった。この前後数シーズン、 必ずと言っていいほど優勝争いに絡んでいた杏林大と東京国際大が、このシーズンだけ 両チームとも不調だった。唯一ついてきた東京農工大は勢いはあったが本当の実力は 備えていなかった。そして入れ替え戦の相手となった工学院大は1部昇格の 立役者となった板橋虎太郎・高田建(いずれも平成9年3月卒業、工学院大附属 高校出身)の2人が卒業した直後。戦力ダウンに加え思ったよりも精神的に ガタガタだった。ただ日工大は日工大でもちろん強かった。投手陣に不安材料は あったが野手は高いレベルの選手がそろっていた。筆者は平成4年の日工大を 知らないのだがこのとき(平成9年)の日工大もやはり豪快さとソツのなさ、両方を 持っていたように思う。チームの雰囲気も明るく、わりと楽しんでやっているよう だった。いい条件がそろって1部昇格を果たしたわけだが本人たちも、むりに 力が入っていたというわけでもなく勢いに乗っていたらいつのまにか1部に たどりついていた、といったかんじだったかもしれない。とにかくも1部に 昇格したわけである。


1部でも通用した男たち

1部に上がりはしたものの彼ら日工大がどう戦っていくだろうかと思っていた。 投手陣に不安を抱えることもあり、勝点を挙げるのは苦しいだろうと思っていた。 しかし平成9年秋、昇格直後のシーズンに早々に勝点を挙げた。日本大学生物 資源科学部から2勝1分で勝点を挙げた。このシーズンは結局この1点に とどまったが最下位は回避。翌平成10年春は、2部から昇格してきた杏林大に 加え、高千穂商科大からも勝点を挙げて4位に入り込んだ。

日工大の1部昇格にともない、何人か筆者個人が注目した選手がいた。塚野と 木村がどれだけ1部で通用するか興味があった。塚野は足が速く肩がよく、 守備と走塁は申し分ない。打撃も右にも左にも打てるいい左打者 だった。木村は指名打者で打撃専門の選手だが、彼の打撃は筆者が見た2部の 選手の中でかなり高いレベルにあったと思っている。とにかく勝負強く、 打撃に安定感がある。コースや球種に関わらずだいたい対応でき、長打力も ある。木村の方は昇格時4年生で、結局1シーズンだけしか1部でプレー しなかったのはもったいなかったが塚野は1部でも存分に自分のプレーを 見せた。平成10年春は打率.325でベストナイン入り、秋にも最多盗塁の タイトルを獲得してベストナイン入りした。社会人野球の関係者からも 問い合わせがあったようである。他にも服部は平成10年春に 連盟トップレベルの創価大に対して終盤まで好投し、大谷は平成9年秋に 高千穂商科大に2安打完投勝利を収めた。1部昇格時に控え捕手だった 川田は昇格後、ときに捕手としてときに投手としてがんばり、平成10年春には 高千穂商科大から完投勝利を挙げている。 平成10年秋の東京学芸大学との対戦では、コールド負け寸前の0-6から 連盟屈指の好投手・小倉丞太郎(当時4年生、卒業後朝日生命へ)を攻め、 4-6まで追い上げたこともあった。結局1部上位校から勝点を挙げることは なかったが、わりと接戦を展開することが多かった。 何人か、なんとか1部で通用している選手もいたわけである。自分たちが 入れ替え戦で対戦した日工大、2部で優勝争いをした日工大が1部で曲がり なりにもやっていく姿を、筆者はうれしくもありやや悔しくも感じながら 見ていた。


おわりに

平成11年春の日工大、1部昇格時のメンバーは 川田・大谷・北山正臣(現4年生、宇部工業高校出身)だけになっていた。 2・3部時代のことを知る選手も少なく、チーム全体に1部のチームであるという 自覚が芽生え始めるかと思ったところでまた2部に転落してしまった (詳細は、東京理科大学のホームページ内の こちら)。 これから迎える平成11年秋のシーズン、川田・大谷・北山が現役を続けるか わからないし、続けたとしても彼らに頼るチーム構成にはならないだろう。 話には聞かされているであろう3部から1部への昇格、それを肌で知る 人間はまさにいなくなってしまう。さらに平成4年に星幸一という飛び抜けた 選手がいたことも今の現役選手は話には聞いているかもしれないが、 もうかなり昔の話という印象だろう。この「ひとりごと」を、日工大の 関係者、特に現役選手が読むかどうかはわからないし、読むまでもなくこういった 歴史を知っているならそれでかまわないのだが、できれば知ってほしいと 思っている。先輩たちが歩んだ激動の歴史、そして今回2部に転落したことを 考えればまだ激動は続くかもしれない。でも日工大は強いチームである、と思う。 その強さを伝えたかったしまた強くなってもらいたいとも思う。ガラは悪くて 口も悪いかもしれないが純粋に野球に専念している印象がある日工大。ドロくさい 野球、ちょっと汚い野球、でも細かいことを忠実にできる野球、そんな野球を する日工大は、やっぱりそこそこ強い方がかっこうがつく。3部にいたりすると なんとなく似合わない。

ここ数年の日工大の足取り。筆者は十分に激動だと思うのだが、他にこれくらい の浮き沈みはあるのだろうか。なかなか聞かない。その激動に携わるとは いかないまでもわりと近いところでそれを見ることができた筆者はある意味で いい経験をしたと思う。日工大の明るい将来を期待したい。


筆者のメールアドレスは yozo@msf.biglobe.ne.jp

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