杉山敬一郎監督への感謝
〜one for all, all for one〜

(山口陽三筆)

平成16年10月2日(土)、横浜駅近くのホテルキャメロットジャパンにて 筆者の母校である光陵高校で野球部の監督を長く務め、この年の春で 光陵を離れることになった杉山敬一郎氏の 慰労パーティーが 開催された。筆者は幹事を務めたわけだが、結果的に卒業生約100名、父母約40名、 教員3名の出席を得て150名弱の盛大なパーティーとなった。そして、 幹事の手前味噌かもしれないが、盛況でパーティーを終了することができ、 筆者個人としてもとても晴れやかな気持ちを味わうことができた。 当日の様子は光陵高校野球部のホームページ でも紹介されていることで記録には残っているし、なにより出席者の記憶にはしっかりと残ったことと 思うのだが、ここであえて記録に残したい。それも、パーティーの準備を 務めた幹事側の人間から、準備段階での話を中心にしながら最終的に 杉山氏の人柄とか周囲の人たちの思いなどを浮き彫りにできるような構成に できれば、と思う(が、文才があるわけでもないのでうまくいかないかもしれない)。


人間・杉山敬一郎

野球部の監督ではあるが卒業生のほとんどは親しみを持って「杉山さん」と 呼ぶのでここでもそう呼ぶ。 杉山さんは昭和38年3月の生まれ。筆者からちょうど一回り年上のうさぎどし。 一人っ子。いつから野球を始めたかは知らないが、日大藤沢高校の軟式野球部に所属。 高校卒業後、日大藤沢のコーチなんかもやっていたのだろうか。 昭和60年、だから当人22才のときに、当時の光陵野球部(当時は軟式)の監督である 稲元氏との縁で光陵野球部のコーチに就任。平成2年夏を最後に稲元氏が 翌年の人事異動を理由に監督を退き、同時に杉山さんが新チームから監督に就任。 筆者が高校1年生、杉山さんは27才の秋。以来、 平成15年夏に監督を退くまで 13年間にわたって監督職を務める。以後後任の長束氏に監督を譲る形となり、 翌年(つまり今年)春までコーチを務めていたが、3月いっぱいで自身の仕事との 兼ね合いもあってコーチの任も退任。光陵を去ることとなった。

これだけの紹介ではなんら特別なものはないのだが、特筆すべきは、杉山さんが 教職員ではないことである。日常は一般企業のサラリーマンとして勤務する かたわらで、高校生の野球指導を、20年近くにわたって続けてきたわけである。 このことは光陵野球部にとって非常に特別なことであった。監督職にある人間が 土日にしか活動に顔を出せない。それがゆえに選手たちが自主的に練習を 進める習慣がついていたし、それは、野球チームとしてよいかどうかは微妙かも しれないが、人間教育の一環としての部活動という視点で見ればとてもよい ことであった(と筆者は思う。むろん、結果的にそうなったことであって、 その効果を生むためにサラリーマン監督を設けたわけではない。)。 杉山さんの方は週2日しか見られないという負い目もあるだろうから、 選手とはしっかりコミュニケーションをとろうとし、また、性格的に 人の話をよく聞いてもくれる人である。そしてなにより、出るべきときには 必ず顔を出してくれた。これもとても重要なことである。高校野球など、 公式戦は平気で平日に行われる。また、野球の試合だから急に雨天順延に なったりもする。それでもしっかりと自分の会社を休んで試合には来てくれる。 日常の土日もそうである。土日しか休みのない一人のサラリーマンがその土日ともに 高校生の部活動に欠かさずつきあうということ。そのことがどれだけ大変なことで あるかは、卒業していって社会人になってからほとんどの卒業生が非常に 強く感じ、あらためて杉山さんへの感謝を深くしていっていた。 野球が、高校生が、教え子が、 「好きだから」とかのひとことで片づけられるものではない。本当に大変だと思う。 というか、同じことをできる人が何人いるんですか? ということである。


光陵を去る

杉山さんあっての光陵野球部。完全にそうなっていた、というか、関係者は みなそう思っていた。ところがその杉山さんが光陵を去るという話が 持ち上がった。筆者は立場上、少しだけ早く本人からその話を聞くことができた。 3月の半ばだったか、「今年の3月いっぱいで光陵を離れることになる。」と 聞かされた。ただし3月末には公式戦も控えているし、正式には本人が部員たちの 前で自分の口で伝えるからということで、それまでは黙っていてほしいと言われていた。

監督の任を前年の夏を最後に降りていたこともあり、筆者としてはいずれ こういった時期が来ることを予想できないこともなかったが、いざ、光陵野球部から 杉山敬一郎という存在がなくなることを考えると、いろいろな意味での 影響の大きさは計り知れない。野球部を取り巻く存在として、平成5年にOB会、 その数年後に父母会が結成されていた。杉山さんはあくまで監督という立場であり、 顧問教師は別に存在してもいたので、考え方によっては「監督は野球に専念して その勝敗にだけ責任を負っていればよい」ということもあるかもしれないが、杉山さんは OB会・父母会との関係を良好に保つためにも奔走しており、そのおかげで両団体ともに 「現役野球部のために」という方向性をしっかりと示し始めつつある時期だった。 あるいは長年の活動の中でコツコツと作り上げてきた他校の監督との人脈があり、 今ではかなりの強豪校の中からも光陵と練習試合をやってくれるチームができ始めていた。 肩書きがコーチか監督かということは二の次で、この存在がなくなることが 非常に大きな出来事である。

とにもかくにも本人の意志は告げられた。黙っていろと言われてはいたが、 黙っていてはそのまま退任することは決定的だった。筆者個人の意見としては 「どっちでもいい」だった。こう言うと非常なる批判を浴びかねないが、 興味や関心がないという意味ではない。慰留したいのは当然である。ただし本人の 事情であり、熟考した末の結論でもあると思う。また、これまでの多大なる 貢献があるからこそ、逆に本人の意志を尊重すべきとも思った。やめないでくれた 方がよいのは十分にわかっているが、筆者がそこで言う「やめないでください」は 逆に本人の思いをまるで理解していないうすっぺらい言葉のような気がして、 あえて個人的に慰留はしなかった。そうは言っても筆者も全体の意見を把握できている わけではない。事が起きてから「お前知っていたのになんで止めないんだよ?」 ということになっても取り返しがつかない。急遽、杉山さんが監督を務めた 期間の各学年から1〜2人ずつを理由を明かさず召集。横浜駅近くの静かな雰囲気の飲み屋 (結果的に慰労パーティー準備委員会のメイン打合せ会場となる)に集会した。 10人前後に声をかけたがなにぶん急な話で、集まったのはK先輩に、あとは 後輩のHS,A,I,Nだった。ただ、来れない人間には電話で話をしたりはした。 事情を話し、まずどう感じるか、そして卒業生の総意として なんらかの意志を表明するかどうかを話し合った。「やめてほしくない」ことでは 一致した。ただ、我々からの意志の表明という点では微妙で、先の筆者の思いと 同じように「本人の意志が1番」「本人が決めたことならば」といった意見が出た。 結局その場はまとまらず、最年長であって杉山さんとも飲み友達のような存在である K先輩が杉山さん本人と話して思いを聞いてもらい、それから対応を決めようと いうことになった。

両者の電話は例に漏れず長電話となったようだが、結果的に本人の意志が固い ようで、よく考えた末の結論であろうこともK先輩は感じたようである。 また、多少なりとも調整が効くのかもしれないが本業である会社員としての 自身の仕事の都合も絡んでいることなので、なかなか「やめないでください」 という方向での説得は難しいだろうという判断になった。

3月29日、まさかの釜利谷マジックが起こった釜利谷高校にて、春季地区予選の 終了を待って杉山さんは現役部員にミーティングの場で、光陵を去る旨を 伝えたと聞いた。


慰労パーティーへの第一歩

4月某日、前回声をかけたメンバーをもう1度召集した。杉山さんが光陵を 去ったことは本人が部員に伝えたこと以外に、光陵野球部唯一の情報発信機関 でもあるホームページでもすでに公表されていた。 すでにボチボチと杉山さんを囲んでの個別の飲み会(学年ごと、仲のよい父母グループ、など)も開催され始め、 あるいは話が持ち上がりつつあったようである。

ここでの召集の目的は、今後の対応である。ひとまずは退任にあたって慰留は 困難との判断を行い、結果として本人の意志通り退任となった。そのこと自体は 残念なことではあるが本人の決定を尊重するスタンスをベストであると、 OBは判断したわけであるから結果に対してうんぬん言うつもりはなかった。 ただ、前回の話し合いの中でも「仮に本当にやめてしまうならば」という 仮定のもとで「せめてこれまでの感謝の意を表し、盛大な会を催したい」という 意見も出ていた。また、3年前の平成13年秋には、11年にわたって部長顧問を 務めた佐藤先生という方の慰労パーティーというものを開催した経験もあり、 同様のことはしてあげたいという気持ちは多くのOBの中にあった。 退任から日にちもまだ浅かったのだが、実は前年8月に杉山さんが監督を 降りた際にも、まだ当人が光陵野球部にコーチとして残ってはいたが「慰労パーティーなどを 開催した方がよいのではないか」の提案や、そのへんをどうするつもりなのかと いった質問が複数方面から出てきたことを考えると、ある程度方向性を はっきりさせておく必要があるだろうと判断しての、早めの動きとなった。 先輩からK先輩、O先輩、あとは前回のA,I,Nに加えてMT,Oの出席を得た。

話し合いの結果として、慰労パーティーのようなイベントについては概ね 前向きだった。部分的にはかなり具体的なところまで一気に話は進んだ。 酔ったK先輩が語る。「とにかく杉山さんのためのパーティーにするぞ。 杉山さんが楽しく感じられる、最高のものにしよう。」。触発されて筆者もまとめた。 「杉山さんが光陵野球部に携わってくれた長い時間に比べればこれから我々が パーティーの準備にかける時間など小さいもの。約半年、本気で取り組もう。」 そして、この2回の会合の出席者プラスアルファが "準備委員" として 活動していくこととなる。


会場検討 〜貴重な戦力の参加〜

結果的に150名弱の出席を得たパーティー。準備の初期段階でどれだけの人数が参加 するのかは当然わからなかったが、3年前の佐藤先生のパーティーの経験などから、 実は150という数字は一つの目安として割り出していた(たまたま当たった)。 ところが150人をさばける会場となるとなかなか探すのが簡単ではない。 準備委員にとって最初の課題となったが、ここで我々は貴重な戦力を得ることができた。 後輩のMSが、当初は準備委員に入っていなかった同期のHを頼った。 結果的にこのHが今回の企画において重要な役割を果たしてくれることになる。

Hは横浜市内のホテルに勤務していた。最終的に会場としてお借りすることに なったホテルは彼の勤務先ではなかったが、ホテル業務の内部事情を熟知 していることもあって、ホテルとの交渉のかなりの部分を彼に任せることができた。 単に時間を作って交渉をやってくれる、ということよりも、ホテル側が 言っていることの裏側とか、先方が頭の中でどういうことを考えてどういう 準備が動いているかなどを、しっかり筆者に説明してくれて大いに助かった。 予算と式次第をにらみながらの食数の調整、会場の設営の具合、 オプションとして依頼するものの提案等、いろいろなところで彼に助けられた。 さらに余談になるが、パーティー当日もHはホテル側との窓口になっていろいろ 影で動いてくれ、おかげで筆者自身はパーティーそのものを楽しむことに 専念できるという、ありがたいことにもなってくれた。


父母との連絡 〜新たな協力体制〜

我々は、パーティーの話が持ち上がったときから、卒業生だけでなく、その父母も 巻き込んでいっしょに開催することを考えていた。3年前のパーティーでも 同様だったし、なにより先述している通り、杉山さんと父母の関係も非常に密接で 良好なものがあった。父母といっしょに開催するつもりではいたが、 企画の最初の段階では会場や予算等、骨格となる要素の中に不確定なものを 多く含んでいたので、それらがある程度見えてから話を持ちかけようと考えていた。 ところがこの連絡の遅れが別の事態を招いた。予想されたことではあるが、 父母は父母で同様のものを考えていたようで、準備を始めつつあるという 連絡が入った。杉山さんと父母、杉山さんと卒業生の関係は密接でも、 卒業生と父母は必ずしも密接でないことを露呈してしまった。 結果的には、それを筆者が聞いてこちらから先方の代表者に連絡を入れる タイミングと、父母の中からも「3年前のこともあるので卒業生の山口さんと 連絡をとった方がいいのでは?」の声があがったのが同時くらいで、 うまく話をあわせることができた。こちらとしてはぜひとも父母の方も呼んで 盛大にやりたいこと、ただし企画を考え始めてはいるがまだ不確定要素も 多いことを伝えた。ぜひともいっしょに準備を進めたい旨を伝え、また卒業生と 言っても人生は道半ばの若い者ばかりなので、何か気づいたことがあれば 遠慮なくご指摘いただけるようお願いをした。準備段階で筆者と父母側の 代表者・I夫妻が会ったのは1度だけだった。このときには父母側の出席者数予想に ついて意見をうかがい、また、予算設定について、一般家庭の視点、人生の 先輩の視点からご意見をいただいた。もろもろの準備については、卒業生側でいろいろ 考えて進めているならばある程度お任せする、という言葉をもらった。 こちらも準備状況は逐一電子メールで連絡すること、何かお手伝いを依頼する こともあるかもしれないことを伝え、散会した。


案内状発送 〜最大のマネジメントミス〜

Hの協力もあって会場となるホテルをそれなりの予算で確保することができた。 我々の話し合いに父母からの意見も加えて予算設定もほぼ固まった。 日程についても主賓の杉山さんや現役野球部の大会日程、あるいは学校関係者の 都合も聞いて、10月2日という日にちに決まった。7月末、案内状の往復はがき550枚を 発送する段になった。

普段のOB会のダイレクトメール等は、光陵高校で印刷をお願いし、用紙にかかる 料金についてはOB会が出し、実際の封筒詰め・切手貼りの作業は学生OBを集めて 光陵高校で行っている。それ自体が好ましいかどうかの議論もあるが、 これといって代替の案もなく、それが毎年続いていた。今回のパーティー案内状に ついても筆者としては同様に考えていたが、後輩のOが異論を唱えた。 今回の件はOB会主催のものではなく、杉山さん自身も光陵を離れていることを 考えれば光陵高校をお借りするのはおかしいというのが大きな論拠。 もう一つには光陵高校の印刷機の性能を考えると、印刷ミス等で多くのむだが 発生する懸念があるということも主張した。筆者は2点両方について言い分を 理解できたのだが、タイミングが悪かった。まさに印刷作業を始めようとする 時期に急に言われたことだった。とりあえずはがき印刷の業者等を探すように Oに伝え、筆者もインターネットや書店でリサーチした。しかし、結果的には時間・予算を 考えるとあまり好ましい候補は上がらなかった。そんな中で筆者かOか、どちらが 思いついたか忘れたが、自宅でのパソコン・プリンタを使った印刷ならば はがき以外はインクの予算で足りるのでわりと安くあがるだろうことに気づいた。 かくして、我が家でやることになった。ちょうど筆者が8月第1週に夏休みを とっていたこともある。まる1日をこの作業に充てることを覚悟した。

筆者の覚悟はそれはそれとして、印刷だけならばプリンタにがんばらせるとしても 宛名ラベルを貼る必要がある。この作業のためにOに我が家に来るよう呼んだが、 当日は都合が悪いと言う。やはり学生であるF,Nに声をかけ、結果的にNだけが来た (あとでわかったがFは夏休みを利用して短期海外留学中だった)。印刷は午前中から プリンタにやらせていたが、Nには午後3時からラベル貼りの作業をしてもらった。 終わった、というかNを解放したのが夜の7時。4時間ぶっ続けの作業、 しかも10才近く離れた先輩の自宅に男二人で缶詰である。これは本当に悪いことをしたと 思っている。N自身はイヤな顔をせず、また、作業中も高校時代の思い出話など、 こちらとしてはいろいろ会話を織り交ぜたつもりではあるが、あとでこの話を 準備委員の間ですると、Nがかわいそうという意見で一致した。

全面的にマネジメントの失敗であると、本当に反省している。後輩からの意見を 受け入れたところまではともかく、結局自分で印刷作業をしてしまうというのは、 マネジメントとしてあまり好ましくない。そこまでは目をつぶるとしても 人数が必要な作業なのになぜ、O,F,Nの3人にしか声をかけなかったか。 平日ゆえに社会人の集合は難しいとか、一人暮らしの我が家に大人数は入れない という事情はあるにせよ、準備委員以外を呼んでもよかったわけだし、 N一人というのはいただけない。また、比較的言ったことを忠実にやってくれるとか、 時間の融通が利きやすそうだということでNを呼んでしまった(甘えてしまった)ことも 反省材料である。嫌悪感ただよった、8月2日だった。


ビデオ上映 〜最大の見せ場〜

パーティーの中で最大の見せ場となったのは、中盤のビデオ上映だった。 準備委員の方針として、これといった企画が思い浮かばなかったこともあるが、 挨拶の時間とかは少なめにしてなるべく歓談の時間を多く取ろうという 方針はあった。杉山さんが多くの人と話ができるように、である。 そんなこともあって9月に入っても式次第の中に特別な企画は入っていなかったのだが、 ふと思いついたことがあった。杉山さんが監督を務めた13年間の中で、 夏の大会がテレビ神奈川で放映されたことが、何度かあった。数えてみると、 6度はあるだろうことがわかった。夏の大会の試合の様子をダイジェストっぽくして つなげて放映すれば、杉山さんも、卒業生も昔を懐かしむことができていいのではないか、 そんなふうに思った。映像関係の仕事に就いている者としては、ちょうど 準備委員の中心人物であるK先輩がいた。9月上旬、パーティーまで1ヶ月を 切っていたがK先輩に相談してみた。日程的に厳しいけれど杉山さんのためだし、 なんとかがんばってみる、という返事だった。そのためにも、まずビデオを見なければ ならないので少しでも早く集めてくれと言われた。かくして、準備委員の中で テレビ中継のあった学年の者に声をかけてK先輩宅にビデオを早急に送るよう連絡した。 その他、自主的にビデオ撮影している父母もいるのではないかと思い、 I氏に相談するとこれがビンゴだった。自主的な撮影というよりも、近年(ここ2〜3年?) は父母が業者に依頼して夏の大会の試合のオリジナルビデオ制作を行っているという。 これならばテレビ中継のない学年の試合も入れることができる。早々に10本弱の ビデオがK先輩の元に集まった。さらにK先輩に依頼されたことは、ビデオのつなぎ だけでなく写真もほしいという話。杉山さんが写っている写真も3分の1くらい 織り交ぜながら、コメントや音楽も入れて立派なものを作ってくれるよう 準備を進めているらしい。ここで思いついたのは父母のU氏。自身の息子は高校を すでに卒業しているが、その後もカメラを持って光陵の野球部を追いかけてくれて いた人である。こちらに依頼して、杉山さんの写っている写真があればK先輩に 送ってもらうようお願いした。

こうしてできたビデオの上映は大盛況だった。実は当日、パーティー前に所用が あって筆者は光陵高校に寄っており、顧問のSB先生から「杉山さんを泣かせる 演出があることを楽しみにしているよ」と言われていたが「まあ、泣かせる 演出はないですけれど、本人が楽しんで思い出になってくれれば」と答えていた。 筆者の中で、泣かせる演出はなかった。ところがこのビデオが最高の出来だった。 夏の大会のダイジェストではあるが杉山さんがベンチで映って選手に指示を 出したり、喜ぶ表情などをうまく散りばめている。「そして、最後の夏」の 画面の次には昨年の夏の大会での敗戦で1塁に滑り込みながら惜しくもアウトに なってうつむく最後の打者のシーンが映され、整列で涙がこぼれないよう上を 向く杉山さんが映される。練習や練習試合での写真、あるいは卒業生との飲み会や 卒業生の結婚式でのスピーチの映像も映り、公私にわたって親身だったことが よくわかる。そんな構成で、最後に「19年間、ありがとうございました」の文と 「67勝59敗2分、ベスト16進出2回」の言葉が出て締める。杉山さんが、 ハンカチで涙をぬぐっていた。感動的だった。ビデオも杉山さんも。 また、あとで出席者にいくつか感想を聞いた中でも、ビデオに対する評判は 格別によかった。 K先輩が本当にすばらしいものを作ってくださった。あとで聞いたことによると K先輩は自身の結婚や引越しも控えている時期であり、非常に多忙であったとの ことであるが、これだけの作業をしていただいて、本当に感謝している。


6万円の攻防 〜有効な一打〜

予算については当初からかなり試行錯誤した。準備段階では出席人数がわからない。 全体の出席人数が予想できたとしても、社会人と父母、あるいは男性と女性で 別の料金設定をしたりしているので、出席者比率までを読まないと正確な 収入額が出ない。それでもおおよその見当をつけ、だいたいパーティー費として 一人いくらくらいの予算で実現可能なのか、ホテルと交渉を進める、というような かんじだった。交渉の過程でいろいろとサービスもしてもらえるような方向で 話が進み、食数も人数分ほどはいらないという判断もあり、思っていたよりも 支出を抑えられそうな雰囲気も出てきた。そこでオプションとしてビデオ上映の 案も出てきたりしたわけだが、当初はビデオプロジェクターなる特別な機材のレンタルに6万円 かかるという話たった。スクリーンはまた別料金である。Hに交渉を依頼したが ホテルも他業者からレンタルするものなので割引はできないと言う。 筆者とHの間では、まあ、予算的に出せないこともないし、ビデオ上映は唯一と言っていい 企画ものなので、ここは目をつぶる判断をした。しかし数日後の準備委員会で 筆者の同期のSが抵抗した。筆者とSとの関係はまた別の機会に触れたいとも思うが、 簡単に言えばお互いに対して、自分にできないことをやってくれるということでの、 妙な釣り合いを保ちながらの信頼関係を持っている(と筆者は思っている)。 今回彼には当日の司会をお願いしており、筆者は彼に当日のことは全面的に任せ、 彼は筆者に準備のことは全面的に任せてくれているかんじだった。 それゆえか、ここまでの準備段階でこれといった 意見も出してこなかったがここはちゃんと言ってくれた。「6万円かけるところ じゃない。自分たちでなんとかできないか。普通のビデオと普通のプロジェクターを 赤・黄・白の線でなんとかしてつなげればいいんじゃないの?」といったことである。

ここで同席していた後輩のAがまた違った形で貢献してくれることになる。 準備委員で唯一大学院生のAは、学生ということで時間に融通が効いてこれまでの 準備委員会にもほとんど出席してくれており、また、学生の中で最年長 ということで筆者も信頼をしていたつもりはあったが、ここまでこれといった 役割があったわけではなかった。しかしここで、大学の研究室からプロジェクターを 借りてきてくれることを担ってくれた。プロジェクター自体は筆者の会社にだって いくつもあるが、会社の備品となるとなかなか持ち出すのも困難である。 Aがこれを借りてきてくれるのは大いに助かった。その場でMSは機械に詳しい 父親に電話で連絡をとって、「その構成で大丈夫であろうこと」「当日の配線は 手伝ってくれること」を確認してくれた。結局この数日後に筆者がビデオデッキを、 Aがプロジェクターを持ってホテルを訪れて接続確認。難なく実現できることを 確認して6万円の支出を食い止めることができた。


代表の選任 〜若返り〜

意外になかなか決まらなかったのが、卒業生代表の挨拶である。筆者個人的には、 筆者の3年先輩で、卒業後に慶応大学・三菱重工神戸で野球を続けた (今も続けている)O先輩が、野球の道での出世頭と言えるので、ぜひとも お願いしたいと思っていたが残念ながら出席をいただけなかった。 それならば出席する卒業生の中で比較的年齢の高い人を選出しようかとも 考えていたが、準備委員会で逆の意見が出た。「若返り」の提案である。

光陵高校に野球部ができたのはおそらく昭和40年代半ば。軟式の部でスタート している。杉山さんが光陵野球部に携わり始めたのが昭和60年、軟式から硬式に 転向したのが昭和63年、杉山さんが監督に就任したのが平成2年である。 OB会には多くの卒業生が在籍し、年に1度のOB会総会にもいろいろな世代の 方が出席される。ただし今回のパーティーは杉山さんが主賓であることから 平成2年以後の卒業生が多い。それに加えて、仮に "杉山世代" なるものがあるならば 筆者および1〜2学年上の学年というのはその中では(もう少し言えば硬式の部の中でも)、 よくも悪くも年長者として長く「のさばってきていた」。中心としてひっぱってきていた つもりだし、今回も結局筆者が幹事を務めている。 しかし全体としては若い人間が毎年増えてくる。その経緯の中で後輩のMSから 若返りの提案があった。

若い世代の意見も聞きながら卒業生代表の挨拶を誰に頼むかを検討し、 現在上智大学4年生で、野球部の主将も務めているTに頼むことに1度は決まった。 ところが当人が当日はリーグ戦があり、出席できるか微妙で遅刻による出席に なるかもしれないとのことだった。そのリスクは負えないので代替を検討。 何人かの候補は挙がりながら準備委員の話し合いで決めきれなかったが、 Oが自分に一任してほしいと申し出た。上智大学のTの他、横浜国立大学で 野球を続けるIら、何人か候補に挙がったあたりにはOの同期も多く含まれ、 全体としても彼の学年かその1〜2学年上あたりから選出する方針だったので、 Oに任せることにした。この過程では、先出の大学院生・Aの意見も筆者から 聞いたし、Oにも、特にOの先輩を選出するならばAの意見は聞くよう、伝えた。

数日後に、Oから横浜国立大学のIに依頼することを決めたと連絡があった。 しっかりと選出の理由も電子メールに記されており、十分納得できた。 いろいろな意味で若返りを感じた一件であった。


慌しい当日準備 〜右往左往〜

当日の筆者は、軽い緊張感を持っていたように思う。行動としてはまず光陵高校へ。 エンディングで流す校歌のカセットテープを入手することと出席者配布用の 式次第等を印刷してもらうのが目的だった。向かう途中、司会を務める同期のSから電話。 「司会要綱をFAXで送ってくれ」と言う。各ポイントで話す内容や、挨拶者プロフィール・ チーム戦績等の情報をまとめておいたメモを電子メールで彼の会社のメールアドレスに 送っておいたのだが、プリントアウトしておくのを忘れたという。Sのことだから 筆者もそのあたりまでは計算のうちで、手元に印刷済みのものを持っていたので コンビニエンスストアからFAXで送った。そこまではまだしも、「場所どこだっけ?」 「俺は何時に行けばいいんだっけ?」。司会が当日に聞く質問じゃないだろう。 答えておいたが、さすがにこの質問は計算外だった。

会場へは筆者が1番乗りではあった。やがてMSが父親とともに、ビデオデッキを 持参して現れる。Aがプロジェクターを持って現れるのを待って機材接続。 Hが来たので、先方の会場担当の人と顔合せ。受付にはO,Fが立つことになって いたが筆者とOの若干の考えの違いで準備が多少ゴタゴタした。そんな間にも 同期から携帯電話。その場は出られなかったがあとでかけ直すと、「もう着いちゃったよ。 服装、何を着ていけばいいのか聞こうと思ったのに。」。9割以上が正装で 来る中、彼は私服で現れた。K先輩が編集済みのビデオを持ってかけつけると、 準備済みの機材で上映テスト。まだ来客を入れる前の会場で、何人かの準備委員だけで 先に見ることができた。かなりいい出来になっており、これは感動を呼ぶ ことができるのではないかと予感させた。


兵どもが夢のあと 〜最後の一人〜

中盤のビデオ上映でいったんは杉山さんに涙を流してもらい、後半は各学年ごとの 杉山さんとの記念写真撮影が自主的に始まり、最後は杉山さんの挨拶、 プレゼント贈呈、校歌斉唱、胴上げで終えた。大きなる感動を皆が感じて終了。 やがてそれぞれに、近い学年同士で2次会等に出かけた。筆者は2次会は 2年上〜1年下のメンバーでの居酒屋。杉山さんも同席してくれていた。 パーティー幹事ということで乾杯をさせられた。「準備委員として手伝ってくれた 人たちに感謝する。そしてなにより出席してくれた全員のおかげと思っている。」。 その気持ちしかなかった。口が上手でもないので、おもしろく言うこともできない。 それだけを言った。3次会では、もう少し若い世代と合流した。杉山さんもいっしょ。 また乾杯をさせられた。「さっきつまらなかったからちゃんと頼むぞ」、そんなことを 言われても自分の感動をそのまま言うことしかできない。同じことを言った。 「杉山さんが携わってこられた歴史の長さと重さをあらためて感じた。」という ことはつけ加えた。午前3時過ぎか、3次会も散会した。ほぼ散り散りになったが、 筆者は何人かとラーメンを食べた後に、3学年下の後輩がバーテンとして勤める バー(?)に行った。杉山さんもすでに飲み始めており、佐藤先生と二人で飲んでいた。 杉山さんと同年齢、二人三脚で光陵野球部を指導してきたが人事異動によって ひとあし先に光陵を去っており、3年前にその慰労パーティーを開催した、 佐藤先生である。この、最後に二人で飲んでいた光景が非常に印象に残っている。 本当にやってよかったと思った。また、たまたまかもしれないが、この光景を 筆者は見届けることができて本当によかった。


振り返って 〜all for one〜

準備委員一人一人が、いろいろな立場・役割で、しっかりと役割を果たして 成功を得ることができ、筆者は感謝していることをすでに書いた。 ここではその中でも、特にHとNのことに触れたい。

Hが今回の企画に大きな貢献を果たしたことは言うまでもない。また、 彼は強制されて仕方なくやっていたわけでもなく、やりがいと楽しみも持って 取り組んでもらえたものと思っている。彼にこれだけの働きをさせたことの 一因として杉山さんの人柄があることも言うまでもない。ただし、 必ずしもHが杉山さんに厚遇されていたわけでもないことが興味深い。

杉山さんがHに対して気にしていることとして、彼が現在正社員でないことがある。 そのことで、わりといろいろ小言を言われているようである。 Hはホテルに勤務はしているが立場はアルバイト。ここ数年、年齢のせいかとみに グチが多くなった杉山さんは卒業生の行く末(?)もより心配しだすようになり、 学生を終えてフラフラしているような者にはいい気分がしないようである。 ただ、今回の準備の過程で筆者は何度かHと二人で飲んで話したりもしたが、 H本人の話によれば、彼は現在の仕事に真剣に取り組んでおり、来客いただいたお客様には 満足して帰ってもらえているとの自負もあり、勤務時間や日数の上でもかなりの量の 仕事をしているとのことである。たまたま立場が正社員ではないことだけである。 筆者より数年若く、大学を出てからすでに数年たつから「いつまでもアルバイトという わけにもいかないだろう」という苦言はありえるかもしれないが、筆者個人と してはかまわないと思うし、なにより今の世の中ではなにも珍しくない。 ところが杉山さんには気になるようで、会ったり電話で話したりすると、なにかと そういうことは言われるようである。

本人にすればどこか不遇な思いを持ってもおかしくないかもしれないが今回、 こういう形で杉山さんの慰労パーティーに取り組んでくれた。「自分がこういう 仕事でがんばっているんだということを見てほしい。だから本当は自分の 勤務するホテルでやってほしかった気持ちはある。でも、とにかく杉山さんに 満足して帰ってもらいたい。」その言葉が印象的だったし、それが今回の 活躍の原動力になったのだとも思う。

Nとは8月に筆者の自宅で二人きりで4時間、作業をこなすことになったと書いた。 二人の空間の中で、いろいろな話をすることができた。そうすると、Nと杉山さんも どこか微妙な関係であることがうかがい知れてきた。Nの学年の最後の夏の大会は 筆者も観戦に行き、よく覚えている試合である。結果的に彼はレギュラー番号を もらっておらず、試合にも出なかったので筆者の中で野球選手としての印象はない。 しかし彼とすればその大会で試合に出場できずにチームが敗退したことをとても 悔しく切なく思っているようなのである。Nからの話によれば彼自身はある時期まで レギュラーの座(あるいはそれにかなり近い位置)にいたとのことである。 ただ、ライバルとの競争や人員配置的なこともあり、また致命的だったのは 夏の大会の背番号を決める最後の練習試合で調子は悪くないながら3打席3三振を 喫するなどして、結果的に夏の大会でレギュラー番号はもらえなかったとのことである (3三振が直接の原因かどうかは知らない)。レギュラー番号がもらえないからと言って チャンスがないわけではない。実際、筆者は彼らの夏の大会を見て、「ここで ベンチにこういう戦力がいたらなあ...」と思う場面が2度はあったのだ。 Nと今回、その話をしてみると、Nからすればそのタイプの戦力としては自分が いたはずだという自負があるように、筆者には感じ取れた。しかし結局出場の機会はなく、 勝負のあやを逸する形でチームは接戦の末、敗北した。Nは試合後に泣き、 大きなショックを負っていたらしい。

起用は監督が決めることであり、考えがあって、勝つために行った決断である。また、 力及ばなかったという意味で選手としてのNにだって非がないわけではない。 そういうこともあり(?)時間がたっていることもあるか、別にNが杉山さんを嫌っている様子はまるでない。 今回の準備にしても案内状の発送以外にもいろいろ手伝ってくれた。 「杉山さん、そう言えばあまり話したことないですね。 陽三さんは二人で飲むこともあるんですか。う〜ん、杉山さんとゆっくり飲んで話すのも... してみたいですねえ。」筆者が間に入るのでよければ機会を作ってやりたいとも思う。

準備委員の中でも最も貢献が大きかったのは、大好評だったビデオを編集して くださったK先輩とは思う。ただし、先輩を指して失礼なのは承知だが、 K先輩がやってくれることは、ある程度予想できていた(ただ、自身の結婚や引越しが ちょうど重なる時期に貴重な時間を割いていただいたことには本当に感謝している)。 K先輩は今は杉山さんのよき飲み友達といったかんじで非常に良好な関係を築いているし、 現役時代にも「杉山さんを男にするんだ」と意気込んで部活動に取り組んでいた 人である。そういう人がいる一方で、HやNといったメンバーもしっかりと貢献 してくれたことがなによりうれしく、また、それを引き出した杉山さんという 存在の偉大さをあらためて感じる。まさに、 杉山さんが会社業務以外の自分の時間を光陵野球部の部員たちのためにほとんど 費やしてきたこと、すなわち one for all、それに対してお世話になった 人たちが杉山さん一人のためにこれだけ動く、すなわち all for one、という 形で恩返しした。光陵野球部の集大成が表れた、10月2日だった。

(こんなことを乾杯の挨拶で言えればかっこいいのだが、アドリブがきかないので...)


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